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2012年8月26日日曜日

常陸太田市訪問団 来臼

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二孝女についてはこのブログでも何度か触れさせて頂きました。
http://usuki.blogspot.jp/search/label/%E4%BA%8C%E5%AD%9D%E5%A5%B3

常陸太田市から大久保市長を始めとする約30名の訪問団が来臼。野津中央公民館であった歓迎式典に参加しました。
懐かしいお顔を拝見することができ、昨年10月に常陸太田市を訪問、大変な歓迎と温かいもてなしを受けたことが思い起こされました。


http://mainichi.jp/area/oita/news/20120826ddlk44010297000c.html
(以下引用)

協定:二孝女の縁、交流再び 臼杵市、茨城・常陸太田市と
毎日新聞 2012年08月26日 地方版

 200年前の臼杵藩に実在した「二孝女」の縁でつながりのある茨城県常陸太田市の大久保太一市長や二孝女顕彰会のメンバーらが25日、臼杵市を訪れ、両市の親善機運を盛り上げる交流促進協定書に調印した。中野五郎・臼杵市長と大久保市長が「相互の信頼と絆を一層深めていきましょう」と握手した。

 二孝女は、野津町の「つゆ」と「とき」の姉妹。巡礼先の常陸国で病に倒れた父を連れて帰ろうと、女2人だけで片道約1200キロの旅をした。父はその間、手厚い看護を受けたという。

 両市には、二孝女関連の資料が数多く残る。父娘が再会して200年だった昨年、臼杵市の市民団体が常陸太田市を訪問するなどし、市民レベルで交流が始まっていた。

 常陸太田市の27人は、25日夜の「臼杵石仏火まつり」も堪能。26日には野津町で歓迎式もある。二孝女物語を継承する川登小児童と交流したり、2人の供養碑を訪ねたりする。【古田健治】

-------引用ここまで

知れば知るほど「日本人の心」がよく表れている心温まる「史実」です。両市の交流が深まり、このことが広まれば広まるほど、江戸時代の日本人の温情にいかに篤かったかが知られます。現代では失われかかっている「日本人の心」というものを取り戻すきっかけになると思います。

2012年7月27日金曜日

「二孝女」が結んだご縁を深めましょう

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http://mytown.asahi.com/ibaraki/news.php?k_id=08000001207220003
(以下引用)

二孝女顕彰会、大分・臼杵へ返礼の旅
2012年07月22日


8月末に大分県臼杵市を訪問する二孝女顕彰会の結団式=常陸太田市の青蓮寺

江戸時代に実際にあった孝行話を伝承する常陸太田市の「二孝女顕彰会」が8月末、主人公の姉妹の古里・大分県臼杵市を訪問することになり、21日、結団式があった。

昨年10月、やはり臼杵市で二孝女物語を伝承する「野津町きっちょむ史談会」の一行50人が、物語の舞台になった常陸太田市の青蓮寺(しょう・れん・じ)を訪れた。今回はその返礼の旅。

青蓮寺であった結団式で顕彰会の桜井正美会長は「二孝女が育った環境をつぶさに見聞して、地域のために生かしたい」。同行する大久保太一市長も「臼杵市との信頼と交流の絆を深めるきっかけにしたい」とあいさつし、臼杵市の中野五郎市長と友好都市締結の方針を確認することを明らかにした。

訪問するのは8月25~27日。顕彰会によると、人数に若干余裕があり、物語に関心のある人なら参加できる。問い合わせは顕彰会事務局の青蓮寺(0294・85・0933)へ。

2011年10月23日日曜日

常陸のこころ(5)

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http://mytown.asahi.com/ibaraki/news.php?k_id=08001101110140001
-------以下、asahi.comより

常陸のこころ

〈5〉子孫交流 新たな実り

2011年10月14日
写真
初右衛門の住居跡の案内板ができた。二孝女研究に尽力した秋山高志さん、野上平さん(左から)は笑顔をみせた=常陸太田市東連地町の青蓮寺
大分県臼杵市の訪問団が14日、常陸太田市の青蓮寺(しょう・れん・じ)を訪れる。目的は、初右衛門、ツユ、トキの父娘がお世話になったことへのお礼。そして、物語をきっかけに結ばれた両市の関係を深めるためだ。
中心となる「野津町きっちょむ史談会」は準備に万全を期し、交流会で披露する盆踊りや歌の練習を重ねた。200年ぶりの父娘のお礼の旅という設定で、寺までの小道を父娘に扮した会員が巡礼姿で歩くことにした。おみやげには特産のカボス2千個に焼酎、臼杵せんべい、石仏まんじゅう……。
出発が近づくにつれ、うれしいことが起こった。一般の市民らから「青蓮寺へのお布施に」と500円、千円と浄財が寄せられた。カボスを5個、10個と持ってきてくれた人もいて、出発までに3500個も集まった。
二孝女の映画化を企画している県立臼杵商業高校生徒会からは、全生徒で集めた震災義援金と手紙を大久保太一・常陸太田市長に渡してほしい、と託された。
迎える青蓮寺でも、今年5月に門徒(檀家(だん・か))らで設立した「二孝女顕彰会」が何度も打ち合わせをし、13日には式次第に沿って交流会のリハーサルも行った。
本番では双方の子孫の顔合わせも予定されている。臼杵市からは二孝女の子孫の川野勝行・美智代夫妻ら、常陸太田市からは初右衛門を診察した医師や父娘に援助をした近郷の名主の子孫らが出席する。
それぞれの地元小学校同士の交流も始まろうとしている。交流会では常陸太田市立山田小の3年生が二孝女について学んだことを発表。臼杵市立川登小の6年生が書いた作文も読まれる。両校は「息の長い交流をしていきましょう」と話し合っている。
行政も物語を地域の資源、財産ととらえ、両市とも顕彰会、史談会を支援している。すでに事務レベルで「姉妹都市締結なども視野」(大久保市長)に連絡を取り合っている。
顕彰会の目的は「二孝女の史実を広め、地域の豊かな人間関係を醸成し将来に伝えていくこと」と規約に書かれている。
次の世代につなぐこと。未曽有の大震災を経験し、家族や助け合いの心の大切さが多くの日本人の身にしみた今が好機と、物語に関わった誰もが考えている。
臼杵市では来年度、小学校の副読本にする予定だ。茨城ではすでに県立高校の道徳の副読本に載り、常陸太田市でも検討が始まった。
来年のいまごろ、今度は顕彰会が臼杵市を訪れる。ツユ、トキがまいた種が新たな実りを結びつつある。
=おわり
(この連載は猪瀬明博が担当しました)

2011年10月21日金曜日

常陸のこころ(4)

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http://mytown.asahi.com/ibaraki/news.php?k_id=08001101110130001
-------以下、asahi.comより

常陸のこころ

〈4〉藩政改革 物語を封印

2011年10月13日
写真
昨年10月に建立された「豊後国二孝女の碑」と藤井智住職=常陸太田市東連地町の青蓮寺
豊後国(大分)のツユとトキが常陸国(茨城)で父と再会する10年前の1801(享和元)年、江戸幕府は「孝義録」という本を編纂(へん・さん)した。全国の孝行者、忠義者、奇特な人、農業に精を出している人などの事例集だ。
当時、貨幣経済の発展・浸透とともに貧富の差が激しくなり、犯罪も頻発した。農民は耕作を放棄し、富が集中する都会に流れた。世は乱れていた。幕府は孝義録によって、庶民に善行や忠義、本業精励を訴え、社会の秩序回復を図ろうとした。
こうした背景もあって、水戸藩は金品を姉妹に与え、帰郷の手配をするほど心を配った。当時の藩主・7代治紀(はる・とし)が掛け軸を贈ったという記録もある。
明治の時代に入っても善行表彰の制度はあった。ツユとトキの古里、大分県臼杵市野津町の川登小学校に残る碑が建立されたのは87(明治20)年だ。物語の顕彰とともに、人々の教化という側面があった。
そうしたお上の思惑とは関係なく、2人にまつわる話を臼杵の人々は郷土の物語として盆踊りの歌にもし、語り継いできた。
一方の茨城。藩をあげて姉妹を厚遇し、近郷近在の多くの庶民が心動かされた物語がどうして伝承されなかったのか。
二孝女研究に努める秋山高志さん(76)と野上平さん(74)は「烈公・9代藩主斉昭(なり・あき)の時代に台頭した藩政改革派の存在や、斉昭が断行した廃仏毀釈(はい・ぶつ・き・しゃく)(仏教排斥)の政策が封印したのでは」と推理する。
斉昭の時代になると、武士階級の力が衰え、藩の財政は危機的状況に陥った。そこで、後の天狗(てん・ぐ)党にも通じる若手急進派は、厳しい封建秩序の回復に躍起になった。温情の政治、寺が舞台の良い話など、もってのほかというわけだ。
史実を伝える当時の書簡類が青蓮寺(しょう・れん・じ)(常陸太田市東連地町)で見つかったのは、今からわずか6年前。藤井智住職(50)によると、経緯はこうだ。
1945年、先代の住職が亡くなると、2人の娘がしばらく寺を守ってきた。娘たちも他界し、先代の親戚筋にあたる藤井住職が10年前に寺に入るまで約20年、無住(住職のいない寺)だった。寺に残っていた掛け軸や文書類は、檀家(だん・か)(門徒)が住職の実家である願船寺(東海村)に預けていたという。
掛け軸の中には、川登小にある顕彰碑の碑文を印刷したものもあった。少なくとも先代は、物語を知っていたとみられる。
青蓮寺の本堂は、ツユとトキの父、初右衛門が世話になっていた間に建立された。そのわきに真新しい碑がある。
昨年10月、檀家らで建てた二孝女の碑だ。大分県では地元紙が伝え、臼杵市民が二孝女話の小説も出した。
常陸太田市と臼杵市の交流が、にわかに広がりをみせてきた。

常陸のこころ(3)

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http://mytown.asahi.com/ibaraki/news.php?k_id=08001101110120001
-------以下、asahi.comより

常陸のこころ

〈3〉高校生、映画化の動き

2011年10月12日
写真
「二孝女物語」の映画化を企画している県立臼杵商業高校の生徒会役員=大分県臼杵市の同校
二孝女研究会の手になる史料集「豊後国の二孝女」(06年3月刊)を契機に注目が集まった物語。常陸太田市出身で現代語訳を任された著述業、橋本留美さん(41)には、不安とは裏腹に「この仕事は私に」という気持ちがあった。
史料集が発行される前から物語を知っていた。「すごい物語があってね。いま研究しているんだ」。研究会のメンバーで、常陸大宮市歴史民俗資料館の調査研究員、野上平さん(74)から聞いていた。橋本さんの父だ。
以来、物語に関心をもっていた。ただそれだけで読み解けるほど、古文はたやすくなかったが、その度に野上さんが救ってくれた。時代考証も引き受けてくれた。父娘の二人三脚だった。
シンガポールで過ごした20代後半の数年間の思い出も役立った。
海外で英語を生かした仕事に就きたいという一心で渡航。多くの人に助けられた自分が、豊後(大分)から遠路はるばる常陸(茨城)を訪れたツユとトキに重なった。
現代語訳のほかに英文の要約も頼まれていた。欧米の日本研究家も二孝女に着目し始めたからだ。この点ではシンガポール時代に身につけた語学力がいきた。
昨年9月末、「実話 病父を尋ねて三百里」(新日本文芸協会)を出版した。足かけ4年。依頼を受けた07年の1月に出産した女児を育てながらの作業。親の立場からも物語に寄り添えた。
二孝女の物語には、一般の読者だけでなく、全国の教育委員会などからも問い合わせが続いている。
大分県臼杵市にある県立臼杵商業高校。今年4月に着任した木戸孝明校長(51)は、前任校の同僚たちから餞別(せん・べつ)に1冊の本をもらった。橋本さんの本だった。斜め読みにとどめたせいか、臼杵の話であることも頭に残らなかった。
入学式、物語の伝承に励む「きっちょむ史談会」事務局長で市教育委員の荘田啓介さん(64)が来校。同校の同窓生でもある荘田さんの話を聞いて、本と二孝女の物語がすぐにつながった。その日に講演会を5月末に開くことを決めた。
臼杵商は3年後に閉校になる。大型連休後の生徒会室――。
「ラスト3年、何かビッグなことがやりたいね」
「二孝女で映画をつくっちゃおうか」
「地域の人もエキストラとして出てもらってね」
3年生がシナリオをつくり、2年生に引き継ぐ。そして今の1年生の卒業式後にある閉校式での上映を目指す。きっちょむ史談会も全面的に支援する構えだ。
実は200年前にも、二孝女のような孝行話を活用しようという動きがあった。

2011年10月19日水曜日

常陸のこころ(2)

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http://mytown.asahi.com/ibaraki/news.php?k_id=08001101110110001
-------以下asahi.comより

常陸のこころ

(2)姉妹の古里 子孫今も

2011年10月11日
写真
巡礼姿の二孝女を描いた鏝絵。1995年に作られた=大分県臼杵市野津町の市立川登小学校
2005年3月、元目白大教授(近世文化史)の秋山高志さん(76)は、路線バスで大分県臼杵市野津町に向かった。山が迫り、民家もまばら。心細さが頭をもたげた半面、江戸時代にはるばる常陸の国を訪れた初右衛門の古里に近づいていると思うと心が躍った。
野津町はその1月に臼杵市と合併したばかり。旧町役場の分庁舎などを回ると、「川登小学校の校舎に二孝女の鏝絵(こて・え)(しっくいで作ったレリーフ)や石碑がありますよ」と職員が教えてくれた。
タクシーで10分ほど。右手に2階建ての小さな小学校が見えてきた。校門の脇に明治時代に建てられた顕彰碑、校舎の正面には初右衛門の二孝女で巡礼姿のツユ、トキを描いた大きな鏝絵。手応えを感じ始めた。「こういうときは続くもの」。歴史家の直感だ。
「供養碑の場所を知っていますよ」。声の主は運転手だった。目と鼻の先の小高い丘にそれはあった。つぶさに観察していると人の気配。白い犬を連れた小柄なおじいさんが怪訝(け・げん)そうな顔を向けていた。
「まさか子孫はいないでしょうね」
「すぐそこの家だよ」
幸運はさらに続く。子孫の川野勝行さん(67)の妻美千代さん(67)が在宅していた。川野さんは入院中で、たまたま着替えを取りに帰ってきていた。
来意を告げ、仏間で待っていると、古ぼけた木箱を抱えてきてくれた。目を見張った。ツユ、トキが持ち帰った短冊帳や巻物などが入っていた。短冊帳を開くと、常陸の国の武士から商人、農民ら各層の人々が2人に贈った短歌、漢詩などがきれいに張られていた。
水戸藩の古文書「水戸紀年」にあった記述、そして今回の発見。秋山さんは水戸に戻ると、本格的な調査に入るため、歴史家や旧知の学芸員ら13人で「二孝女研究会」を設立した。
ほどなく今度は、常陸太田市の青蓮寺(しょう・れん・じ)で遺物が見つかった。ツユ、トキからの礼状、臼杵藩や初右衛門の菩提寺(ぼ・だい・じ)・善正寺からの書簡――。土浦市立図書館と東大史料編纂所(へん・さん・じょ)にも関連の史料があることも分かった。
翌年3月、研究会は史料集「豊後国の二孝女」を刊行した。初版は500部で、2カ月後にはこの種の本としては異例の増刷をかけた。歴史家だけでなく教育界も注目し始めた。一般の読者向けに現代語訳を求める声が高まった。
07年、常陸太田市出身の著述業、橋本留美さん(41)に話が持ち込まれた。「すばらしい話だけど、古典は難しいし、私にできるかしら」
不安を抱えながら、作業に取りかかった。 

2011年10月17日月曜日

常陸のこころ(1)

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「二孝女」に関しては、茨城県でも大きく取り上げられています。
地元の新聞に5回シリーズで「常陸のこころ」として紹介されています。
http://mytown.asahi.com/ibaraki/news.php?k_id=08001101110090001

-------以下 asahi.comより引用

常陸のこころ

(1) 孝行話 200年を超えて

2011年10月09日
写真
常陸太田市で披露する盆踊りの練習に精を出す「野津町きっちょむ史談会」会員ら=大分県臼杵市野津町の野津中央公民館
頓知話で知られる「吉四六(きっ・ちょ・む)さん」の里、大分県臼杵市野津町。1日夜、30人ほどの男女が中央公民館ホールに集まった。市中心部から離れた山あいの町で、盆踊りの練習が静寂を破った。太鼓の調子に合わせた口説き歌の中身は地元で語り継がれる孝行話。
「二孝女物語」という。臼杵が「豊後」、茨城県常陸太田市が「常陸」だった時代、豊後の農民初右衛門が旅の途中で常陸の青蓮寺(しょう・れん・じ)の前で病に倒れ、7年も村民らの厚情を受けた。母を早くに亡くした父思いの娘、ツユとトキが長旅の末に初右衛門と再会し、無事に古里に連れ帰ったという話だ。
踊る男女は「野津町きっちょむ史談会」の会員ら。物語の伝承に励む60代を中心とする市民団体だ。父娘の再会から今年で200年。14日、祖先を助けてもらったことへのお礼と常陸太田市との交流促進を図るために同市を訪れる。練習は2時間近く続いた。
史談会は1989年に結成され、地域の歴史・文化を後世に残す活動をしている。「二孝女」もその一つだが、言い伝えか史実かはっきりしないために、広がりにいま一つ欠けるうらみがあった。
「二孝女の記録は残っていませんか」。2004年、事務局長の荘田啓介さん(64)は青蓮寺に連絡を入れた。町に残る資料も送ったが収穫はなかった。「野津で地道に調べるしかない」。そう気持ちを切り替えた。
同じころ。元目白大教授(近世文化史)で水戸市に住む秋山高志さん(76)は、水戸藩の役人が著した「水戸紀年」に二孝女の記述を見つけた。わずか数行。興味をそそられ、友人で常陸大宮市歴史民俗資料館の調査研究員、野上平さん(74)に協力を求めた。常陸太田市に住む野上さんは早速、青蓮寺周辺の取材に動いた。古老や檀家(だん・か)に尋ねても知る人はいなかった。
秋山さんは05年3月、単身臼杵市に飛んだ。史談会の動きも知らず、あてはなかった。初右衛門の菩提寺(ぼ・だい・じ)・善正寺辺りに行けば、「端緒がつかめる」と思った。寺近くの旅館を前線基地にあちこち回った。すると「初右衛門の古里は野津」であることが分かった。
翌日、路線バスで向かった。車窓の風景がゆっくり動く。もどかしさと期待。心が逸(はや)った。
豊後の国の孝行娘、その父を無償の愛で世話した常陸の人々。2世紀の時空を超え、遠く離れた大分県臼杵市と常陸太田市を結ぶ新たな物語が始まった。
(この連載は猪瀬明博が担当します) 
◆二孝女物語 あらすじ
1804(文化元)年、豊後国・臼杵(現・臼杵市野津町)の農民初右衛門がツユ、トキの姉妹を残し、浄土真宗開祖・親鸞ゆかりの地を巡る旅に出た。しかし、旅の途中に患った病が悪化し、青蓮寺(常陸太田市東連地町)で行き倒れに。寺の離れに住まわせてもらい、住職夫妻や村人らの世話で養生を続けた。
11(同8)年、京都であった親鸞550回忌の式で住職と初右衛門の菩提(ぼ・だい)寺の住職が偶然出会った。父の消息を知った姉妹は同年8月、父を古里に連れ帰ろうと決意。船と徒歩の300里(約1200キロ)の旅に出た。2カ月後に父と再会。翌春、親子3人そろって無事に帰郷を果たした。 

2011年10月16日日曜日

「二孝女」お礼訪問団

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10月14日・15日、茨城県常陸太田市に行ってきました。
http://mytown.asahi.com/ibaraki/news.php?k_id=08000001110150001

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「二孝女」 大分からの使節団と交流

2011年10月15日
写真
昨年10月に建立された「二孝女の碑」の前で記念撮影する「野津町きっちょむ史談会」と「二孝女顕彰会」の会員=常陸太田市の青蓮寺
 家族愛、相互扶助の心に満ちた江戸時代の史実「二孝女物語」の主人公ツユとトキ姉妹の古里、大分県臼杵市の使節団約50人が14日、姉妹と姉妹の父、初右衛門が恩を受けた茨城県常陸太田市の青蓮寺(しょう・れん・じ)を訪れた。
 臼杵市で物語を伝承する「野津町きっちょむ史談会」の会員を中心とした使節団は、午後4時過ぎに到着。姉妹と7年間も寺や村人に世話になった初右衛門に扮した会員を先頭に門前につくと、青蓮寺の藤井智住職(50)が「ようこそいらっしゃいました。200年ぶりですね」と出迎えた。
 本堂前で行われた式典では史談会の吉良卓美会長(77)があいさつの最後に、物語の映画化を目指す県立臼杵商業高校生徒会から託された震災義援金を常陸太田市の大久保太一市長に手渡した。
 交流会では、父娘の子孫と、初右衛門を治療した医師の子孫らの顔合わせもあった。使節団が披露した二孝女を題材とした盆踊りに顕彰会の会員らも飛び入り参加するなど、両市民の交歓の輪があちこちにでき、今後も長く交流を続けることを誓っていた。(猪瀬明博/asahi.com) 

2011年10月3日月曜日

豊後国二孝女

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二孝女について書かれたブログをご紹介。
http://sans-culotte.seesaa.net/article/227975610.html

-------以下引用

“病父を尋ねて三百里”―「豊後国二孝女」の孝養

今は昔…とは言っても、ほんの200年前のお話―

豊後臼杵うすき領内の大野郡川登かわのぼりあざ泊村(現、大分県臼杵市野津町のつまち大字泊)に「豊後国二孝女」と賞賛された姉妹が居りました。

姉妹の名は、姉がつゆ、妹がときと言いました。

江戸時代の寛政8年(1796)、姉妹の母親が急病で亡くなりますが、姉妹は父である川(河)野初衛門と共に農作業に精出していました。

その後、文化元年(1804)3月5日、熱心な浄土真宗門徒である初衛門が、親鸞聖人所縁の地を巡りながら、亡き妻の菩提を弔おうと供養巡礼の旅に出ます。

京都の寺々を巡った後、信濃、越後を目指し、途中上州辺りで持病の足痛の治療を兼ねて草津温泉に逗留。そこから、越後、奥羽地方を巡り、常陸に入り、久慈郡東蓮寺村(現、常陸太田市東連地町)辺りで足の痛みが再発してしまい、同領内に在る青蓮寺しょうれんじに逗留して療養する事を余儀なくされます。

こうした初衛門の窮状が故郷で待つ姉妹の許に伝わる事はなく、7年もの歳月が経ちました。

ところが―

文化8年(1811)、京の龍谷山本願寺(浄土真宗本願寺派本山、通称「西本願寺」「お西さん」)で親鸞上人の550回忌大遠忌おんき法会ほうえが催された際に出席した青蓮寺の住職が川野家の菩提寺である善正寺(大分県臼杵市大字二王座におざ)の住職と歓談した折に初衛門の消息が判明し、姉妹の耳に伝わったのです。

実は初衛門が常陸に居るという噂はあったのです。そこで、つゆは幾度か父親探しの密行を計画したのですが、その都度事前に発覚したり、追っ手に抑えられたりして実現できずにいたのです。

しかし、初衛門の消息が確実のものとなった今、姉妹は居ても立っても居られず、臼杵藩の許可を得て豊後臼杵から常陸水戸の青蓮寺まで2か月近い旅の末に父と再会を果たします。

そうした姉妹の父親への孝養を尽くす姿が、水戸藩臼杵藩の共感を呼んで様々な支援を受けて、翌文化9年(1812)春、無事に親子3人で帰国を果たすのです。

姉妹の地元では“豊後国の二孝女伝説”として伝わっていて、供養碑が建てられていたり、旧盆の25日に「孝女祭」と銘打った供養法会が催されていました。

ところが、平成16年(2004)に臼杵市の郷土史研究家が青蓮寺に照会した事をきっかけに、翌17年(2005)に青蓮寺臼杵藩江戸屋敷から青蓮寺宛の手紙や姉妹からの礼状等の17通の書簡が発見され、史実である事が判明したのです。
青蓮寺境内に完成した二孝女の記念碑

これらの書簡は『豊後国二孝女関係資料』として、同22年(2010)9月、常陸太田市の文化財に指定され、同年10月には青蓮寺の境内に記念碑が建立されました。

また、平成19年度(2007・4~08・3)の茨城県の県立高校の道徳副読本である『ともに歩む』に要約された内容が掲載され、青蓮寺が在る地元の小学校では、郷土学習や総合学習の教材として採用されたと聞きます。

姉妹の地元に在る臼杵市立川登小学校には校庭に記念碑が建てられているほか、校歌(3番)の中で、


緑したたる 校庭に
二孝女の碑を 仰ぎつつ
友愛 信義 勉学の
誉れも高き わが母校
という様に「豊後二孝女」が唱われています。

「豊後国二孝女」の三百里の旅路
泊村

臼杵港 8月11日発(この時、つゆ22歳、とき19歳であった…)

(船便で)森口(守口)(現、大阪府守口市) 8月27日着

(陸路、京街道を道行き)京 9月2日着 西本願寺に参拝

箱根関所 9月25日通過

江戸・臼杵藩江戸屋敷 9月29日着

江戸・臼杵藩江戸屋敷 10月2日発

水戸街道を道行き)小幡(現、茨城県東茨城郡茨城町) 10月7日着

水戸

東蓮寺村・青蓮寺 10月9日着

青蓮寺 2月9日発

江戸・臼杵藩江戸屋敷 2月13日着

江戸・臼杵藩江戸屋敷 3月5日発

大坂 3月25日着

大坂 3月29日発

臼杵 4月6日着

といった行程で、

泊 ⇔ 臼杵   …7里
臼杵 ⇔ 江戸 …258里
江戸 ⇔ 東蓮寺村…36里半
と、約300里(約1200km)の旅路を踏破した事になりますね。

― ◇ ◇ ◇ ―

「豊後国二孝女」の美談を書き記している古文書(下)と書幅(左上)

私がちょうどこの「豊後二孝女」の事を知ったのが、今年の4月5日にオープンしたばかりの龍谷ミュージアム開館記念・親鸞聖人750回大遠忌法要記念展「釈尊と親鸞」展の第1期期間中(~5月22日まで)にだけ「豊後国二孝女」関連の資料を出展するという新聞記事を観たのが初見でした。

出展されていたのは、
  1. 二孝女碑・二孝女像
  2. 二孝女関係文書
だったのですが、

1は昭和15年(1940)に製作された掛け軸で明治20年(1887)に臼杵にて建てられた顕彰碑の碑文と共に「豊後国二孝女」の肖像が描かれたもの

2は2通あって、

1つは、青蓮寺宛平生忠剛書状(文化8年=1811)で、水戸藩と交渉した臼杵藩江戸屋敷留守居役の平生ひらお左介(助)忠剛ただたか青蓮寺に宛てた依頼状で、姉妹が初衛門の消息を善正寺から聞いて朧気おぼろげながら知っていた事。つゆの嫁ぎ先では舅姑の病気の介護に追われ、つゆの夫も奉公に出るなどで家庭が苦しかった様子を説明し、はからずも父親の迎えが遅延した事を姉妹に代わって詫びた内容が書かれています。

もう1つは、青蓮寺宛つゆとき書状(文化9年=1812)父・初衛門を江戸まで送り戻した姉妹(つゆ・とき)が青蓮寺に宛てた礼状でした。

― ◇ ◇ ◇ ―

「豊後国二孝女」のこうした美談から思うのは、周辺の人々の反対を押し切り、危険を覚悟で命がけの旅に出た姉妹のひたむきさ、親を思う気持ちに共感に覚える事です。

私自身、一人っ子として育ち、体の弱い母にかわって祖母に育ててもらいました。(だから完全に“お婆ちゃん子”ですけどね…笑)

それ故に、周りから言われる以前に「親の面倒は自分がみる」と思ってますし、それが当然だと感じています。

周りの友人からすれば、このご時世に旧態依然としたオールドタイプな奴とみられがちですけどね…

― ◇ ◇ ◇ ―

もう1つ感じたのは、この親子に対して我が身のように心配し、温かい手を差し伸べた、当時の人々の心の持ち様に深い感銘を受けずにはいられません。

当時は侍・武士が身分や権力を傘に大威張り散らしていたし、ましてや庶民レベルでさえ、他国者よそものを蔑視するような排他的で閉鎖的な風潮だあったのは周知の事実。

それなのに、初衛門やつゆ・とき姉妹に関わった人たちは何と人道主義に溢れている事でしょう。

姉妹が帰国して周囲の人々に漏らした言葉の中に「御国様(=水戸藩領)へ参りましたれば、御慈悲深い事で、地獄より極楽へ生まれました…」と述べ、かの地を「御仁国」と語っています。

“何だろう”、水戸藩といえば“黄門様”徳川光圀以来の伝統として水戸学が有名ですね。

有名な話として、『史記』に記載された伯夷・叔斉の兄弟のエピソードを知った光圀が兄の頼重を差し置いて自分が水戸藩主になった事を心の痛手とし、頼重の子供を自分の養子として水戸家を継がせた話ですが、そうした光圀以来、水戸学の基礎となった儒学精神が御領内に息づいた結果なのでしょうか!

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※(参照)『広報ひたちおおた』2010年9月号
koho-hitachiota_2010-09.jpg

※(参照)二孝女(77段物)(大分よいとこ、より)→
※(参考文献)『豊後国の二孝女』 豊後国の二孝女研究会
※(参考文献)橋本留美『実話 病父を尋ねて三百里―豊後国の二孝女物語』新日本文芸協会

2011年7月7日木曜日

常陸太田市「青蓮寺」

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二孝女とその父がお世話になった「青蓮寺」

2011年5月30日月曜日

「二孝女」講演会写真

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 左から、川野初衛門のご子孫、臼杵の善正寺のご坊守、常陸太田市の青蓮寺のご住職。
200年前京都本願寺の「親鸞聖人550回大遠忌」でたまたま出会った当時の善正寺と青蓮寺の住職。「善正寺の門徒の川野初衛門が病気で青蓮寺で静養している」との会話から居所が判明した。
ちなみに今年が750回大遠忌である。
 「豊後国の二孝女研究会副代表」の野上平先生。
秋山先生の依頼で調査中、たまたま歯医者で一緒になった青蓮寺のご住職に資料の捜索を依頼。200年を経て、寺から当時の書簡17通が発見された。
当時の水戸藩のよい気風を今に伝え、古き時代の日本人の心と社会・・・孝行、慈悲、礼節・・・が偲ばれる物語。
 青蓮寺のご住職 藤井智氏、「二孝女」に触れ、人は一人では生きていけないことを実感、無縁社会において「縁起の法」に触れたとの思い。
元目白大学教授 秋山高志先生、ふとしたきっかけで「二孝女」に興味を持ち、関係文献を研究。
臼杵は4度目、不思議なご縁により川野家に残る記録にたどり着いたという。「二孝女」は大変記録性が強く、内容が豊か、関係者の善意がよく描写されており、この研究は大変な喜びにつながっているという。

2011年5月29日日曜日

「二孝女」講演会

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遠く茨城から来訪された三名の方の暖かい気持ちが伝わる、大変有意義な講演会でした。

偶然の積み重ねにより、今「二孝女」にスポットが当たるのは特別の意味があるように思います。
「孝」という価値観が今まさに求められているのだとも。

200年前に「二孝女」によりご縁が生まれた臼杵市と常陸太田市、新しいご縁が今日結ばれ、新しい関係づくりが始まった、そんな気がしました。

200年前の美談よみがえる

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200年前の美談よみがえる

2011年5月29日 01:27 カテゴリー:九州 > 大分
二孝女が茨城から持ち帰った品を見る(左から)野上さんと秋山さん、子孫の川野さん、藤井住職
 江戸時代、遠く離れた地で病に倒れた父親を故郷に連れ戻すため、現在の臼杵市から茨城県常陸太田市まで向かった姉妹の実話「二孝女物語」が伝わる臼杵市を28日、常陸太田市の青蓮(しょうれん)寺の藤井智住職(49)が初めて訪れた。同寺は、父親が7年間療養生活を送ったと伝えられており、臼杵市野津町にある姉妹の子孫の自宅で、藤井住職が仏壇に手を合わせた。
 つゆとときの姉妹は1811年、親鸞ゆかりの遺跡巡礼中に歩けなくなった父親を迎えに行くため、1200キロの道程を2カ月かけて命がけで旅した。親子は青蓮寺で再会。姉妹は、寺の周辺の40-50軒を回り、父親の世話をした住民に丁寧に礼をして歩いたという。
 姉妹の話は、茨城県では伝わっていなかったが、2005年に青蓮寺で古い書簡17通が見つかり、地元の郷土史家たちの分析で実話と判明した。美談を語り継ぐため、昨年10月に門徒の寄付金などで寺に記念碑を建立し、今月21日には市民グループ「二孝女顕彰会」も発足した。
 仏壇の前で読経した藤井住職は、親子再会200年の節目の年に臼杵市を訪れたことに「姉妹の思いが時代や場所を越えたのだと思う」と感慨深げに話した。子孫の川野勝行さん(66)は「先祖たちもさぞかし喜んでいるでしょう」と話した。
 藤井住職らは29日午後1時から、野津中央公民館で「日本人の心」と題して講演。茨城県でこの実話を研究してきた元目白大教授の秋山高志さん(76)、元茨城県立高校校長の野上平さん(74)も参加する。常陸太田市は東日本大震災の被災地で、会場では義援金も募る。無料。同公民館=0974(32)2270。
=2011/05/29付 西日本新聞朝刊=

2011年3月7日月曜日

二百年の時を経てよみがえる「二孝女物語」

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「二孝女物語」、3月26日(土)14:00より「サーラ・デ・うすき」にて
野津町きっちょむ史談会の荘田啓介氏をお招きしてお話を伺います。

どなたでも参加いただけますので、ぜひご参加下さい。参加料無料。



二孝女は現在の臼杵市に暮らした貧しい農家のつゆ、ときの姉妹
浄土真宗信者だった父親は1804年、親鸞ゆかりの遺跡巡礼の旅に出た。
途中、父親は足の病気で歩けなくなり、
現在の茨城県常陸太田市の青蓮(しょうれん)寺で、地元住民に助けられ療養。
親子は音信不通になった。

7年後、京都・西本願寺であった親鸞550回忌大法会で、
臼杵にある一家の菩提(ぼだい)寺と青蓮寺の住職が出会い、所在が発覚。

臼杵藩から許可をもらった22歳と19歳の姉妹は、父親を連れ戻すため出発した。

当時、盗賊なども多く、女性2人旅は命懸けだったが、1200キロを船や徒歩で2カ月かけて旅し、父親と再会。無事、臼杵に連れ戻したという。

2004年に史談会の荘田啓介さん(63)が、姉妹の話が伝わっていないか、
青蓮寺に問い合わせたところ、翌年、古い書簡17通を寺から発見。

茨城県の郷土史研究グループの分析で、実話と判明した。
美談は寺や同グループが語り継ぎ、
07年には茨城の県立高校で道徳の副読本に掲載され、
今年10月、青蓮寺境内に記念碑も建った。
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ここまで 2010/12/04付 西日本新聞朝刊 より転載紹介