2011年10月3日月曜日

豊後国二孝女

二孝女について書かれたブログをご紹介。
http://sans-culotte.seesaa.net/article/227975610.html

-------以下引用

“病父を尋ねて三百里”―「豊後国二孝女」の孝養

今は昔…とは言っても、ほんの200年前のお話―

豊後臼杵うすき領内の大野郡川登かわのぼりあざ泊村(現、大分県臼杵市野津町のつまち大字泊)に「豊後国二孝女」と賞賛された姉妹が居りました。

姉妹の名は、姉がつゆ、妹がときと言いました。

江戸時代の寛政8年(1796)、姉妹の母親が急病で亡くなりますが、姉妹は父である川(河)野初衛門と共に農作業に精出していました。

その後、文化元年(1804)3月5日、熱心な浄土真宗門徒である初衛門が、親鸞聖人所縁の地を巡りながら、亡き妻の菩提を弔おうと供養巡礼の旅に出ます。

京都の寺々を巡った後、信濃、越後を目指し、途中上州辺りで持病の足痛の治療を兼ねて草津温泉に逗留。そこから、越後、奥羽地方を巡り、常陸に入り、久慈郡東蓮寺村(現、常陸太田市東連地町)辺りで足の痛みが再発してしまい、同領内に在る青蓮寺しょうれんじに逗留して療養する事を余儀なくされます。

こうした初衛門の窮状が故郷で待つ姉妹の許に伝わる事はなく、7年もの歳月が経ちました。

ところが―

文化8年(1811)、京の龍谷山本願寺(浄土真宗本願寺派本山、通称「西本願寺」「お西さん」)で親鸞上人の550回忌大遠忌おんき法会ほうえが催された際に出席した青蓮寺の住職が川野家の菩提寺である善正寺(大分県臼杵市大字二王座におざ)の住職と歓談した折に初衛門の消息が判明し、姉妹の耳に伝わったのです。

実は初衛門が常陸に居るという噂はあったのです。そこで、つゆは幾度か父親探しの密行を計画したのですが、その都度事前に発覚したり、追っ手に抑えられたりして実現できずにいたのです。

しかし、初衛門の消息が確実のものとなった今、姉妹は居ても立っても居られず、臼杵藩の許可を得て豊後臼杵から常陸水戸の青蓮寺まで2か月近い旅の末に父と再会を果たします。

そうした姉妹の父親への孝養を尽くす姿が、水戸藩臼杵藩の共感を呼んで様々な支援を受けて、翌文化9年(1812)春、無事に親子3人で帰国を果たすのです。

姉妹の地元では“豊後国の二孝女伝説”として伝わっていて、供養碑が建てられていたり、旧盆の25日に「孝女祭」と銘打った供養法会が催されていました。

ところが、平成16年(2004)に臼杵市の郷土史研究家が青蓮寺に照会した事をきっかけに、翌17年(2005)に青蓮寺臼杵藩江戸屋敷から青蓮寺宛の手紙や姉妹からの礼状等の17通の書簡が発見され、史実である事が判明したのです。
青蓮寺境内に完成した二孝女の記念碑

これらの書簡は『豊後国二孝女関係資料』として、同22年(2010)9月、常陸太田市の文化財に指定され、同年10月には青蓮寺の境内に記念碑が建立されました。

また、平成19年度(2007・4~08・3)の茨城県の県立高校の道徳副読本である『ともに歩む』に要約された内容が掲載され、青蓮寺が在る地元の小学校では、郷土学習や総合学習の教材として採用されたと聞きます。

姉妹の地元に在る臼杵市立川登小学校には校庭に記念碑が建てられているほか、校歌(3番)の中で、


緑したたる 校庭に
二孝女の碑を 仰ぎつつ
友愛 信義 勉学の
誉れも高き わが母校
という様に「豊後二孝女」が唱われています。

「豊後国二孝女」の三百里の旅路
泊村

臼杵港 8月11日発(この時、つゆ22歳、とき19歳であった…)

(船便で)森口(守口)(現、大阪府守口市) 8月27日着

(陸路、京街道を道行き)京 9月2日着 西本願寺に参拝

箱根関所 9月25日通過

江戸・臼杵藩江戸屋敷 9月29日着

江戸・臼杵藩江戸屋敷 10月2日発

水戸街道を道行き)小幡(現、茨城県東茨城郡茨城町) 10月7日着

水戸

東蓮寺村・青蓮寺 10月9日着

青蓮寺 2月9日発

江戸・臼杵藩江戸屋敷 2月13日着

江戸・臼杵藩江戸屋敷 3月5日発

大坂 3月25日着

大坂 3月29日発

臼杵 4月6日着

といった行程で、

泊 ⇔ 臼杵   …7里
臼杵 ⇔ 江戸 …258里
江戸 ⇔ 東蓮寺村…36里半
と、約300里(約1200km)の旅路を踏破した事になりますね。

― ◇ ◇ ◇ ―

「豊後国二孝女」の美談を書き記している古文書(下)と書幅(左上)

私がちょうどこの「豊後二孝女」の事を知ったのが、今年の4月5日にオープンしたばかりの龍谷ミュージアム開館記念・親鸞聖人750回大遠忌法要記念展「釈尊と親鸞」展の第1期期間中(~5月22日まで)にだけ「豊後国二孝女」関連の資料を出展するという新聞記事を観たのが初見でした。

出展されていたのは、
  1. 二孝女碑・二孝女像
  2. 二孝女関係文書
だったのですが、

1は昭和15年(1940)に製作された掛け軸で明治20年(1887)に臼杵にて建てられた顕彰碑の碑文と共に「豊後国二孝女」の肖像が描かれたもの

2は2通あって、

1つは、青蓮寺宛平生忠剛書状(文化8年=1811)で、水戸藩と交渉した臼杵藩江戸屋敷留守居役の平生ひらお左介(助)忠剛ただたか青蓮寺に宛てた依頼状で、姉妹が初衛門の消息を善正寺から聞いて朧気おぼろげながら知っていた事。つゆの嫁ぎ先では舅姑の病気の介護に追われ、つゆの夫も奉公に出るなどで家庭が苦しかった様子を説明し、はからずも父親の迎えが遅延した事を姉妹に代わって詫びた内容が書かれています。

もう1つは、青蓮寺宛つゆとき書状(文化9年=1812)父・初衛門を江戸まで送り戻した姉妹(つゆ・とき)が青蓮寺に宛てた礼状でした。

― ◇ ◇ ◇ ―

「豊後国二孝女」のこうした美談から思うのは、周辺の人々の反対を押し切り、危険を覚悟で命がけの旅に出た姉妹のひたむきさ、親を思う気持ちに共感に覚える事です。

私自身、一人っ子として育ち、体の弱い母にかわって祖母に育ててもらいました。(だから完全に“お婆ちゃん子”ですけどね…笑)

それ故に、周りから言われる以前に「親の面倒は自分がみる」と思ってますし、それが当然だと感じています。

周りの友人からすれば、このご時世に旧態依然としたオールドタイプな奴とみられがちですけどね…

― ◇ ◇ ◇ ―

もう1つ感じたのは、この親子に対して我が身のように心配し、温かい手を差し伸べた、当時の人々の心の持ち様に深い感銘を受けずにはいられません。

当時は侍・武士が身分や権力を傘に大威張り散らしていたし、ましてや庶民レベルでさえ、他国者よそものを蔑視するような排他的で閉鎖的な風潮だあったのは周知の事実。

それなのに、初衛門やつゆ・とき姉妹に関わった人たちは何と人道主義に溢れている事でしょう。

姉妹が帰国して周囲の人々に漏らした言葉の中に「御国様(=水戸藩領)へ参りましたれば、御慈悲深い事で、地獄より極楽へ生まれました…」と述べ、かの地を「御仁国」と語っています。

“何だろう”、水戸藩といえば“黄門様”徳川光圀以来の伝統として水戸学が有名ですね。

有名な話として、『史記』に記載された伯夷・叔斉の兄弟のエピソードを知った光圀が兄の頼重を差し置いて自分が水戸藩主になった事を心の痛手とし、頼重の子供を自分の養子として水戸家を継がせた話ですが、そうした光圀以来、水戸学の基礎となった儒学精神が御領内に息づいた結果なのでしょうか!

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)『広報ひたちおおた』2010年9月号
koho-hitachiota_2010-09.jpg

※(参照)二孝女(77段物)(大分よいとこ、より)→
※(参考文献)『豊後国の二孝女』 豊後国の二孝女研究会
※(参考文献)橋本留美『実話 病父を尋ねて三百里―豊後国の二孝女物語』新日本文芸協会

2 件のコメント:

  1. 始めまして、本日(11/13)青蓮寺を訪ねて詣りました。この「豊後国二孝女」の話は昨日の事でしたが、地元(市内)に住んで居て知ら無いのは恥かしいとの思いで本日早速行って来ました。幸いにも、ご住職にお会い出来、雑談も交わす事が出来ました。
    今週末には、夜会が開催されるようで、檀家のみなさんが奉仕作業をされていました。

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  2. 私も10年ほど前に人づてに知った話、父を思う娘の心根もさることながら、行きずりの病人へ差し向けられた篤い情に感動させられました。
    江戸時代は、士農工商の身分制度が厳しく心も荒んでいたのではないかとの誤解は氷解しました。当時の日本人は(も)かくも心優しい人々であったのかと。
    訪問団の一員として青蓮寺を訪問した折「おかえりなさい」という横断幕で迎えられたときの感動は忘れられません。
    二孝女の話をとおして「日本人の心」をたくさんの人たちに感じていただければと願っております。

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