2011年1月15日土曜日

日本人の精神を、今こそ取り戻すとき。 前編

日本人の精神を、今こそ取り戻すとき。 前編

『ジャパニスト』第6号(2010年7月発行)掲載記事
対談:金 美齢 × 中田 宏



戦後50年のあゆみ

中田 この対談では、「日本のことをもっと好きになろう」というテーマにそって、金さんにいろいろなお話をうかがいたいと思います。
 私は台湾の生まれですが、日本が大好きで、私だけではなく多くの台湾人は日本が好きです。それなのに、なぜか日本人が自分の国を語るときは「日本てダメ」から始まるのですよね。この風潮は戦後教育の影響もあるのかもしれませんが、本当におかしなことです。日本人が日本という国家に保護されているのは事実ですし、豊かな社会の中で生活できるのも国のおかげなのです。それなのに「日本はよい国だ」と語ることはずっとタブーした。以前、ある討論番組で社民党の福島党首とご一緒したとき、ある方が「案外、福島さんは愛国者ですね」と発言したら、福島党首は「違います、違います!」とあわてて否定していました。愕然としましたよ。口では「国民のために」と語り、国民の税金で活動している国会議員がですよ。呆れて何も言えませんでしたね。
中田 そこが今日の日本のおかしなところです。ところで、金さんと日本の最初の接点は何でしょうか。
 私は生まれた時点ですでに日本人でした。台湾は日本の統治下でしたからね。その頃の思い出としては、日本人の先生や兵隊さんにお世話になったということくらいです。そして終戦を迎えて中国人がやって来て、いきなり戦勝国の国民になったのです。当時は「祖国の懐に帰る」という言い方をしていましたが、当時の私には切実な変化と感じませんでした。
中田 敗戦国からいきなり戦勝国になったというのは、衝撃的だったことでしょう。
 台湾という場所はそういう複雑な歴史を抱えているのです。こういったことを曖昧にせずにしっかり学ぶことで、国も人も成長できると思います。
中田 日本が台湾を統治していた時代を、金さんはどう見ていますか。
 台湾は日本が初めて手に入れた新しい領土だったわけですが、日本人は「本土と同じようにしたい」と考えたんですね。これは日本独自の考え方だったと思います。西欧列強にとって植民地はあくまで植民地であって、本国と同じようにしようなんて発想はありません。搾取の相手でしかないのです。一方で日本は台湾を「本土並み」にしようとした。これを「いらぬおせっかいだった」ととるか「それが近代化のきっかけになったのだからありがたい」ととるかでこの五十年の価値が大きく変わります。
中田 台湾の大多数の方は後者の考えということなのですか。
 そうだと思います。歴史には必ず光と陰があります。これはどの国でも必ずそうなのです。台湾が日本の植民地になったことは間違いなく陰ですよ。しかし、一方でインフラが整い、日本人の素晴らしい精神を教えられ、教育水準も上がるなどして国としての基本が整いました。これは光の部分といっていいでしょう。
中田 日本の台湾統治に光の部分もあったことは、しっかり認識するべきですね。ただ、そこだけを見て当時の日本を正当化するのではなく、謙虚に歴史を見ることも必要ではないかと思います。
 歴史を解釈するというのは、起こった事実を公正に見るということです。正当・非正当の問題ではありません。もちろん台湾が植民地になるなんて二度とごめんです。台湾は台湾であって、日本にも中国にもなりたくはありません。ただプラスとマイナスをきちんとフェアに見て、総合的にどうであったかを考える。それが歴史を見るということだと思うのです。そして私個人としては、日本の台湾統治はプラスの方が多かったと思っています。しかし、それと正当かどうかの話はまったく別次元です。
中田 たしかにその通りですね。日本の歴史そのものに関しても、複眼的な目線が必要でしょう。その後、金さんはご自身の意志で日本に来られたのですか。
 最初は早稲田大学の留学生として日本に来ました。 
中田 大人になってから来日し、実際住んでみて、日本の印象はどう変わりましたか。
 来日する前の私は、東京といえば大都会で、華やかな夢のような場所と思っていました。ところが、羽田に降り立ち、下宿のあった若松町へ行くまでに見た町並みは雑然としていて、それまでの私のイメージとまったく違っていました。第一印象としては「これが東京?」というものでしたね(笑)。このギャップはもの凄かったですよ。ただ、もうひとつ同時に抱いた印象があります。来日した翌日、丸ノ内線に乗って大手町まで簡単に行たことに自分でも驚きました。まったく違和感がなかったんです。初めて来た土地であるにもかかわらず、ずっと住んでいた場所のような感覚で、すぐ街に馴染めました。ですから日本に来たときの印象は、「ギャップ」と「親近感」のふたつですね。
中田 その後、日本は高度経済成長からバブル経済へと大きく変化を続けます。東京の風景も日々変わり続けてきたと思いますが、金さんはそのようなダイナミズムの中をずっと日本で生きてこられたのですね。
 今振り返ると、私はまともにその中にいました。来日の翌年には六十 年安保闘争が始まりますが、私は早稲田大学にいたこともあってこの体験からは実に多くのことを学びました。
中田 安保闘争に関しては主義、主張で行動していた人もいれば、単に流れに乗っていただけという人もいたと思うのですが、実際のところ金さんの目にはどう映りましたか。 金 あれはほとんど流行といっていいでしょう。当時のファッションのようなものだったと思います。核心にいる数人の発言力がとても強く、メディアにはたらきかける。そしてメディアはそれを煽動するという構図だったと思います。
 安保闘争を身近で体験して、驚かれたこともあったのではないですか。
 まず感じたのは「なんでこんなに自由に発言できるの?」ということです(笑)。当時の母国は政府と対立することを言えば捕らえられるような状態ですから、それと比較すると、なぜこんなに言論が自由なのかと驚きましたね。しかし、よく見てみると声の大きい人が全体を牛耳っていて、大半の人はそれに煽動されているという実体が徐々にわかってきました。討論の場で少しでも違う意見を言えば激しく攻撃され、その発言は封じられて大多数はサイレント・マジョリティになっているというのが現実でした。 
中田 金さんご自身、発言はされなかったのでしょうか。
 安保問題に関して、私はかなり慎重でした。なにより私は留学生であるという立場がありましたので、この問題への発言はわきまえたほうがいいと感じていました。しかも安保の背景にあるさまざまな事情もよくわかっていませんでしたし、漠然とですが台湾にとっても日米安保はあった方がいいのではないかという気もしていました。ですから発言はひかえていました。
中田 そのような中でも多くのことを学んだわけですね。
 そうです。先ほどお話したとおり、自由に発言できることへの喜びがありました。これはとても素晴らしいことですし、貴重なことでもあるのです。一方で、メディアの情報のいい加減さも身をもって体験しました。煽るだけ煽っておいて、風向きが変わると一気に引いていくわけです。警官隊との闘争で亡くなった樺美智子さんのことに関しても、メディアは殉教者のように仕立てていましたが、実際のところは誰にもわからない。もしかしたら殺到した人びとが将棋倒しになった末の悲劇だったのかもしれませんよ。また、メディアは岸信介首相のことを、容貌も含めさんざんに表現していましたが、その後に直接お会いしてみるととても素敵な方でした。とにかくメディアの情報というのは曖昧なものがありますし、すべてを鵜呑みにしてはいけない。私たちはいつの時代にあっても、真実を見極める目を持つことが重要です。そしてそのためには、日々学び続け、自身を磨くことしかないと思いますよ。 

「学ぶ」ということ

中田 安保闘争についての言説の中で、よく「あの頃の若者にはエネルギーがあった」と耳にします。対して「今の若者にはそれがない」とも。金さんはこの二世代を比較してどう思われますか。
 あの紛争を見てくると、あの時の若者たちのうねりが本心からの行動であったのかとも思いますよ。ゲバ棒を持って盛んに運動をしていた人が、就職活動に臨んではリクルートスーツで身を固めていました。また、初志貫徹しようと試みた人たちの多くは、自分の人生をダメにしてしまいました。いずれにせよそのような時代があって今があるのは間違いないわけですし、一口にどちらがどうだとは言えないと感じます。また、政治的な発言はなるべく解りやすい言葉を使い、地道に継続するべきだというのも、この体験から得たことですね。
中田 なるほど。では、ここ十年くらいのあいだ、「閉塞感」が日本の社会全体を覆っていると言われ続けてきましたが、金さんご自身はそういった空気を感じていらっしゃいますか。
 今、日本の若者の多くは自分の未来を信じていないのではないでしょうか。しかも自分のために努力をする覚悟もなければ意志すらもない人が多いと感じています。若者がこのような状態なのは、まちがいなく閉塞感のあらわれです。これは冒頭に述べたことともつながりますが、自分やその属する地域、国への帰属意識がないことにも関係があると思います。おかれた環境や立場にまずは感謝する。その上で自分を高めていく努力をしなければ、幸福感は得られないのではないでしょうか。 
中田 日本と比較して、台湾の若者はどうですか。
 歴史的な背景もあって、台湾人は政治的な発言や行動をあまりしてこなかったと思います。統治者が良い統治をしていればそれでいいというような感覚があるのです。地理的に温暖でのんびりとした風土ということも手伝ってか、政治的なことで悩むよりは自分の生活を良くして、立身出世をするという方向に価値を見いだしていると思いますね。それと同時に日本とまったく違うのは、「学ぶ」ということに関しての意識の違いです。勉強するということを自分の問題として考えていますし、それが自分の価値を引き上げることにもつながると信じています。
中田 日本の子どもは「学ぶ」というより、勉強させられているという意識が強い。
 まずはその意義を真剣に説く必要があります。いい大学に入ることが学びのすべてではありませんよね。学びの本質をきちんと認識することができれば、日本人はもともと勤勉なのですから立ち直ることができると信じています。 
中田 では、若者に「なぜ勉強しなければならないのか?」と問われたとき、金さんならどうお答えになりますか。
 まず、勉強をしなくていいという理由はひとつもない。しかし、勉強しなくてはならない理由はいくらでもありますよね。これは基本的な事実です。そしてもっともわかりやすい私の答えは、「古今東西の先人たちが汗と涙と血を流して獲得した知的遺産を、努力するだけで自分のものにできる」ということです。専売特許もありませんし、莫大なお金がかかるというものでもなく、学びさえすればそれらを自分のものとすることができる。これはとてもありがたいことなのです。このことを多くの若者に説いていきたいと思いますね。
中田 一方で金さんのご発言には、日本の潜在力を高く評価するものも多くありますが、具体的にどのようなことでしょう。
 日本には素晴らしいものがたくさんあります。目に見えるものも、見えないものもあります。とりわけ私が声を大にして言いたいのは、台湾に残る「日本精神」という言葉。目には見えませんが、たしかに当時の日本人が持っていた「精神」です。これを活性化させていくということが極めて重要だと思いますよ。
中田 「日本精神」という言葉が台湾に残っているというのはとても興味深いことですね。これはどういうことを指した言葉なのでしょうか。
 日本が台湾を統治していた五十年間に残したものはたくさんあります。それはインフラであったり制度であったりと膨大にあるわけですが、それらを作り上げた日本人の態度や姿勢を指した言葉です。具体的に何が内包されるかと言えば、まずは向上心。そして仕事に対する情熱です。自分の仕事に誇りを持って大切にするという心。最近「匠の精神」という言葉を耳にしますがその根底にある精神でしょう。
中田 手を抜かずに自分の役目を全うするということですね。
 そうです。仕事を愛して全身全霊を傾けるという姿勢です。和を尊ぶという気持ちもそうでしょうし、さらに信用を第一に考える価値観。そして創意工夫をし続けるという日本人の姿。これらは世界に誇れる日本人のメンタリティです。台湾人はこういった日本人の素晴らしい心を総称して「日本精神」と言っています。これは統治時代ではなくて、日本人が去った後、中国の方式と比較して生まれた言葉なのです。 
中田 そのことを当の日本人がほとんど理解しておらず、しかも失いかけているのが皮肉なところです。
 ものごとは比較して理解できるということが多々あります。よく外国に行って日本の良さが改めてわかったという人がいますが、それはまさに比較して学んだからですよ。人間は比較して気づき、学ぶことができるのです。また、わざわざ外国まで行かなくてもチリやハイチの被害、アフガニスタンやイラクの惨状を知ることはできますよね。そこで我が身と比較してみる。すると自分が普段どれほど恵まれた環境に身をおいているのか、多くの自由を手にしているのか実感できます。そこから始めればいいことだと思います。
中田 それも含めて、「学ぶ」ということですね。自分の国の歴史をプラスもマイナスも含めて学び、その成り立ちや現在に至る経緯を身につける。そこに他と比較をしてみるという視点が入れば、日本という国の高い価値や素晴らしさがさらに浮き上がってくるのでしょう。
 その通りです。
中田 そこに気づくことができれば、日本人も自信を回復して、閉塞感など打開することができるかもしれませんね。 
 私はできると思いますよ。自分の両親を愛せない子どもは幸福にはなれません。国や社会だってそれと同じ。上の世代を反面教師にしたっていいのです。ただ基本としては両親を含め多くの先人たちのおかげで自分が存在しているということを認識して、正も負も受け入れるというところから出発することです。人間は生まれる時代や場所を選べませんからね。であれば、そのすべてを受け入れて、授かったものを肯定しながら進んで行くことがとても大切だと思います。
中田 人間はどのような悪い状況であれ、必ずそれを変える力を持っていると思います。与えられた環境の中で、いかに努力をして自分を高められるかが重要なのでしょうね。
 さらに加えると、自分の人生を自分で拓いてゆくという覚悟です。運命の女神というのは前髪しかないんですよね(笑)。ですから常に準備万端にしておかなければ女神様は通り過ぎてしまう。通り過ぎてからでは遅いのですよ。いつでも動けるようにしておくには、やはり日々学び続けて鍛えておくしかないのです。そしてそれが自立するということへの第一歩だと思います。

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