2023年1月12日木曜日

コロナ対策、異論許さぬ社会生む健康至上主義 神戸大大学院國部氏

冷静な分析、是非皆さんに読んでいただきたい記事です。
しばらくしたら消すかも。お早めに。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00454/010500011/

-------以下引用

コロナ対策、異論許さぬ社会生む健康至上主義 神戸大大学院國部氏
2023.1.12


上阪 欣史
日本での新型コロナウイルスの感染拡大から間もなく3年。ウイルスが弱毒化の傾向を示し、重症化率が大幅に低下してもなお人々はマスクを手放せず、日常生活は2019年以前に戻っていない。欧米は22年に「アフターコロナ」に舵を切っているが、ワクチン接種も含めて日本人の間には同調圧力が働いたままだ。『ワクチンの境界 権力と倫理の力学』(アメージング出版)の著者で神戸大学大学院経営学研究科教授の國部克彦氏は、日本社会が感染防止を重視するがあまり単一の考え方に染まり、自由で多様な議論ができなくなっていると警鐘を鳴らす。

國部克彦(こくぶ・かつひこ)氏
神戸大学大学院経営学研究科教授。1962年生まれ。90年大阪市立大学大学院経営学研究科博士課程修了後、博士号取得。大阪市立大学助教授などを経て95年神戸大学経営学部助教授、2001年から現職。専門は社会環境会計や経営倫理。『ワクチンの境界 権力と倫理の力学』では倫理学や社会学の研究成果を応用した。

ー新型コロナウイルスワクチンの接種やマスクなど感染防止対策を巡る日本社会のありようを「全体主義的」と論じています。

國部克彦・神戸大学大学院経営学研究科教授(以下、國部氏):「1つの正しい」考え方をもとに全体をまとめ、その考え方に従う人々と従わない人々との間に境界線を引く。これはワクチン接種を巡る問題で顕著に表れました。政府は「大切な人を守るため」「社会のため」と接種を求めたわけですが、そうした聞こえのいいメッセージの下、立ち止まって考えることが許されなくなったわけです。

 ワクチンに予防効果はあると国や製薬会社もうたっていますが、そうでないデータが出てきたり(関連記事:ワクチン2回の陽性率、半数世代で未接種上回る 厚労省再集計で判明)、国内外問わず免疫学者やウイルス学者がワクチンのリスクについて警鐘を鳴らしたりしていましたが、国民的な議論にはなっていません。そうした異論を許さない社会になってしまったように私の目には映ります。

異論を許さない社会

 19世紀の哲学者・数学者であるウィリアム・クリフォードは「人間は軽々しく物事を信じてはいけない。疑問視し、検証する者が必要」と述べています。私たちが政府の主張を検証する手段を失えばどうなるでしょう。もし、政府の側が間違っていたとすれば、取り返しのつかないことが起きる可能性もあります。

ーしかし、緊急時に政府が権力を行使して感染症対策に乗り出し、その手段の1つとしてワクチン接種を進めるのは公衆衛生上、必要なのでは。

國部氏:緊急事態において国家が権力を行使することは不可欠でしょう。しかし、国民一人ひとりの倫理的な判断を抑圧して、「社会のために接種を」と権力が一方的に倫理観に働きかければ、それは全体主義に等しいものになります。

 感染症対策を支持するのも批判するのも個人の自由意思ですし、私も中立の視点に立ち著書で論を展開しました。ただ、疑問を呈したり熟慮したり、個人の内面に根差した判断を許さない今の日本社会は正しい姿でしょうか。

ー具体的に予防効果やリスクについて検証を必要とする事例はありますか。

國部氏:厚生労働省や多くの自治体は接種推奨のパンフレットなどで「メリットがリスクを上回る」と説明しています。予防効果などメリットを数字で強調している一方、リスクについては誰の目にも分かる数字を使って公平に言及していません。なので、私たちはリスクとデメリットを比較できない状況です。ワクチン接種後の副反応が疑われている死亡例や重篤な副反応疑い報告例もかなりの数にのぼっています。

※編集部注:22年12月16日の厚生科学審議会予防接種・ワクチン分科会副反応検討部会では、22年11月13日までに副反応疑い死亡例が約1920件、重篤な副反応疑い例が約2万6300件報告された。厚労省は同省ウェブサイトの「新型コロナワクチンQ&A」において、「日本においても、副反応疑い報告制度により、ワクチン接種後の死亡事例が報告されていますが、こうした事例をみたときに、現時点でワクチン接種との因果関係があると判断された事例はありません」と説明している。

 また、日本小児科学会は「12歳以上の健康な子どもへのワクチン接種は意義がある」と説明していますが、メリットをリスクが上回る論拠はあいまいです。科学的な議論や、専門家と市民である我々とのコミュニケーションを通してはじめてリスク・ベネフィットを判断できるわけですが、それがない。

 前述のクリフォードは「疑問視し、検証する者が必要」と述べていますが、それは専門家だけではなく、私たち一人ひとりにも課せられているはずです。



規律を求め健康を管理する権力

ーワクチン接種やマスク着用など国民が一方向に振れやすく、1つの考え方に同調してしまうのはなぜでしょう。

國部氏:20世紀最大の社会学者、哲学者の一人であるミシェル・フーコーの権力論から読み解くことができます。権力と聞くと誰か特定の力を持った人が、他の人に対して行使するイメージを持つかと思います。社長と社員、教師と生徒のような関係ですね。

 こうした権力関係のほかに、フーコーは近代では、規律や規範を持って行動するよう個人に促す「匿名の権力」が出てきたことを膨大な史料から解き明かしました。例えば身なりを整える、義務教育を受ける、結婚して家庭を持つことは、個人が自発的な意識で行動しているように見えますが、これは社会の規律・規範として匿名の権力が人々に作用している、とフーコーは論じます。

 もう1つ、フーコーは近代社会が健康や生命を管理する「生権力」を生み出したと説明します。健康診断や早期発見・早期治療を目指す医療システムはその例です。健康診断では正常値から外れると治療や健康的な生活を求められます。これは健康に権力が介入するシステムになっていて、マクロで見れば生産人口の管理につながります。

 今の過剰なまでのコロナ対策は「あなたとあなたの大切な人を守るため」と個人に規律を求める「匿名の権力」と「生権力」がリンクし、強い同調圧力を生んでいるように見えます。この統治から外れた人たちを我々は無意識のうちに、「反ワク」という一言で差別してはいないでしょうか。

今の過剰なコロナ対策は、「社会のため」「大切な人を守るため」と個人に規律を求める「匿名の権力」と「生権力」がリンクし、強い同調圧力を生んでいるように見えます

ー同調圧力の根底にあるものは何でしょうか。

國部氏:「健康を保つため」「長生きするため」という健康を至上の価値とし、それが医療制度としてシステム化されていることだと思います。健康は生きる目的ではなく、あくまでよりよく生きるための「手段」にすぎません。健康が目的になると人はそれに従属的になり、逆に支配されることになりはしないでしょうか。

自利利他同事の思想を

 イタリアの哲学者、ジョルジョ・アガンベン氏はこの健康至上主義を批判し、ロックダウン(都市封鎖)による市民の権利の制限を批判しました。弱毒化し重症化率が低くなったウイルス※に対しても「絶対に感染してはならない」という、健康を至上の価値とした対策が今も日本では続いています。黙食やマスクなしでは自由に話ができないなど「よりよく生きる」文化的な生活は奪われたままで、これも一方的な議論に終始しています。

※編集部注:22年11月11日の新型コロナウイルス感染症対策分科会で委員から示されたデータでは、インフルエンザの致死率は60歳未満で0.01%、60歳以上で0.55%。一方、オミクロン派生型の「BA.4」「BA.5」によるコロナ第7波の致死率は60歳未満で0.004%(大阪)、0.01%(東京)、60歳以上で0.475%(大阪)、0.64%(東京)となっている。

ー政府のコロナ対策について自由に議論していくために何が必要でしょうか。

國部氏:ワクチン接種では「あなたとあなたの大切な人を守るために」という言葉が頻繁に使われました。しかし、接種にはリスクが伴います。リスクとベネフィットを平等に扱うなら「あなたの大切な人を守るためにリスクを許容する」ことへの呼びかけも付け加えるべきでしょう。

 高齢者を守るために、高齢者に比べ重症化率が相対的に低い若年層や20歳未満の子どもたちが、「利他」を優先するため接種してきましたが、リスクを伴う自己犠牲であれば本末転倒でしょう。

 どう生きるかは自分で決めることが最も肝要だと私は考えています。感染が怖いからワクチンを打つ行為も、リスクがあるから打たない行為も、どちらもあってしかるべきでしょう。主張したいのは、自分の命をどう守るかを考えたとき、社会はこの2つの行為を平等に扱うべきではないか、ということです。

 米ファイザーなど製薬会社のコロナワクチンは日本では特例承認で、いまなお治験中です。確定的な治験データも十分でない中、リスクを考えて打たないという選択は個人の尊厳を守る意味でも尊重されなければいけません。

 自由な社会を担保するという意味で、利己的であることは相手を尊重する利他的な行為につながるのです。社会が利他を強要するようになった時、自己は封殺され生きにくい社会が待っています。「自利利他同事」。これは日本の曹洞宗の開祖である道元が説いた教えです。私たちはいま一度この「自利利他同事」をかみしめるべきではないでしょうか。

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