2011年10月21日金曜日

常陸のこころ(4)


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-------以下、asahi.comより

常陸のこころ

〈4〉藩政改革 物語を封印

2011年10月13日
写真
昨年10月に建立された「豊後国二孝女の碑」と藤井智住職=常陸太田市東連地町の青蓮寺
豊後国(大分)のツユとトキが常陸国(茨城)で父と再会する10年前の1801(享和元)年、江戸幕府は「孝義録」という本を編纂(へん・さん)した。全国の孝行者、忠義者、奇特な人、農業に精を出している人などの事例集だ。
当時、貨幣経済の発展・浸透とともに貧富の差が激しくなり、犯罪も頻発した。農民は耕作を放棄し、富が集中する都会に流れた。世は乱れていた。幕府は孝義録によって、庶民に善行や忠義、本業精励を訴え、社会の秩序回復を図ろうとした。
こうした背景もあって、水戸藩は金品を姉妹に与え、帰郷の手配をするほど心を配った。当時の藩主・7代治紀(はる・とし)が掛け軸を贈ったという記録もある。
明治の時代に入っても善行表彰の制度はあった。ツユとトキの古里、大分県臼杵市野津町の川登小学校に残る碑が建立されたのは87(明治20)年だ。物語の顕彰とともに、人々の教化という側面があった。
そうしたお上の思惑とは関係なく、2人にまつわる話を臼杵の人々は郷土の物語として盆踊りの歌にもし、語り継いできた。
一方の茨城。藩をあげて姉妹を厚遇し、近郷近在の多くの庶民が心動かされた物語がどうして伝承されなかったのか。
二孝女研究に努める秋山高志さん(76)と野上平さん(74)は「烈公・9代藩主斉昭(なり・あき)の時代に台頭した藩政改革派の存在や、斉昭が断行した廃仏毀釈(はい・ぶつ・き・しゃく)(仏教排斥)の政策が封印したのでは」と推理する。
斉昭の時代になると、武士階級の力が衰え、藩の財政は危機的状況に陥った。そこで、後の天狗(てん・ぐ)党にも通じる若手急進派は、厳しい封建秩序の回復に躍起になった。温情の政治、寺が舞台の良い話など、もってのほかというわけだ。
史実を伝える当時の書簡類が青蓮寺(しょう・れん・じ)(常陸太田市東連地町)で見つかったのは、今からわずか6年前。藤井智住職(50)によると、経緯はこうだ。
1945年、先代の住職が亡くなると、2人の娘がしばらく寺を守ってきた。娘たちも他界し、先代の親戚筋にあたる藤井住職が10年前に寺に入るまで約20年、無住(住職のいない寺)だった。寺に残っていた掛け軸や文書類は、檀家(だん・か)(門徒)が住職の実家である願船寺(東海村)に預けていたという。
掛け軸の中には、川登小にある顕彰碑の碑文を印刷したものもあった。少なくとも先代は、物語を知っていたとみられる。
青蓮寺の本堂は、ツユとトキの父、初右衛門が世話になっていた間に建立された。そのわきに真新しい碑がある。
昨年10月、檀家らで建てた二孝女の碑だ。大分県では地元紙が伝え、臼杵市民が二孝女話の小説も出した。
常陸太田市と臼杵市の交流が、にわかに広がりをみせてきた。

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