大友宗麟が日本で初めて量産化に成功した石火矢とみられる大砲。中央部分に宗麟の洗礼名フランシスコを図案化した「FRCO」をかたどった印章がある=神田高士代表提供
戦国時代の豊後のキリシタン大名・大友宗麟が日本で初めて量産化に成功した「石火矢(いしびや)」(ファルコン砲)とみられる大砲が、ロシア・サンクトペテルブルクの国立軍事史博物館に収蔵されていることが28日までに、東京大学史料編纂(へんさん)所の調査で確認された。その破壊力から「国崩(くにくずし)」の異名を取った大砲。宗麟の洗礼名「ドン・フランシスコ」を図案化した印章が砲身にあることが決め手となったという。
調査団に同行した「豊後中世砲史研究会」の神田高士代表(45)=臼杵市教委文化財課長代理=によると、大砲は青銅製で全長2・64メートル、口径8センチ。砲身にはフランシスコの頭文字をかたどった「FRCO」の印章が鋳文字として刻まれていた。
幕末期の軍事・外交に詳しい同編纂所の保谷徹教授によると、日本国内に残る文献では、江戸時代後期に起きた日ロ両国の紛争で、北方の防衛力強化を迫られた徳川幕府が全国から集めた武器を利尻島(北海道)に運ぶ途中、ロシア船の襲撃に遭い強奪された。
中世イエズス会の宣教師ルイス・フロイスがまとめた「日本史」によると、宗麟は1576年にポルトガル領インドから大砲を国内で初めて輸入。それをモデルに2年後には領内で大砲数門を鋳造し、量産化に成功したとされる。同博物館には、宗麟が輸入したとみられる東南アジア製の大砲も収蔵されていた。
神田代表は「印章の存在や砲身の形状を見ても、宗麟が製造した大砲である可能性が極めて高い。宣教師の文献とも時期的に符合している。国産大砲のルーツであろう東南アジア製の砲も含め、大砲製造の歴史を研究する上で貴重な資料だ」と話している。(大分合同新聞)
調査団に同行した「豊後中世砲史研究会」の神田高士代表(45)=臼杵市教委文化財課長代理=によると、大砲は青銅製で全長2・64メートル、口径8センチ。砲身にはフランシスコの頭文字をかたどった「FRCO」の印章が鋳文字として刻まれていた。
幕末期の軍事・外交に詳しい同編纂所の保谷徹教授によると、日本国内に残る文献では、江戸時代後期に起きた日ロ両国の紛争で、北方の防衛力強化を迫られた徳川幕府が全国から集めた武器を利尻島(北海道)に運ぶ途中、ロシア船の襲撃に遭い強奪された。
中世イエズス会の宣教師ルイス・フロイスがまとめた「日本史」によると、宗麟は1576年にポルトガル領インドから大砲を国内で初めて輸入。それをモデルに2年後には領内で大砲数門を鋳造し、量産化に成功したとされる。同博物館には、宗麟が輸入したとみられる東南アジア製の大砲も収蔵されていた。
神田代表は「印章の存在や砲身の形状を見ても、宗麟が製造した大砲である可能性が極めて高い。宣教師の文献とも時期的に符合している。国産大砲のルーツであろう東南アジア製の砲も含め、大砲製造の歴史を研究する上で貴重な資料だ」と話している。(大分合同新聞)
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いやはや臼杵の歴史は面白い。「国崩(くにくずし)」については、こちらもぜひご覧下さい。
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