活動を通じて、思うことや考えることなど
「住民協議会」という表現を使っているが,正確に住民の意見をくみ取ることができるか,つまり実質的に機能しうるか疑問である。問題点は大きく3つ。住民の代表としての住民協議会委員(または協議会)の存在する根拠,委員として選任される者の適切性,そして協議会が実質的に機能しなかった場合の問題,とりわけ政治的責任についての問題,である。 問題点第一について。太刀洗町の協議会制度においては,委員を住民から無作為抽出する方法により選任することとしており,この点,なぜ住民のうち一部の者が住民としての共同の意思を示すのかということについて根拠を示せていない。たとえば,議会制度であれば,議会の構成員たる議員は住民による選挙により選ばれており,そこには住民意思が存在すると考えることもできるだろう。 問題点第二について。委員を住民から無作為抽出する方法により選任されるとしているため,事実上住民の代表として機能する委員となる者の水準について問題とされていない。 協議会をそれなりの水準で機能させようとするならば,自ら問題意識を持ち,審議事項について積極的に調査研究し,協議会の場で適切な意見表明ないし主張をし,討議に,実質的にも参加できなければならない(この点,事務局と対等に渡り合うことが出来るというのは,協議会を充実させる上で極めて重要なことと見ることができよう。)。 この点,住民のうちから無作為で委員を選出するというのは,実質住民の代表として住民意思の擬制に関与する委員を,協議に参加し討議するための基礎的能力すら検討せずに選出するというに等しく,協議会が正常に稼働するための担保が現状されているとは解しがたい。 とりわけ一番懸念すべきは,問題点第三,すなわち住民協議会が,実質的に機能していない場合にあっても,ある政策に対し「住民の意見」として住民の承諾があると擬制するための装置になり得る,ということである。この場合,「住民の意見」とされた見解について責任を負う主体が存在しないこともあり,問題である。 住民協議会の委員は無作為抽出されている結果,事実上協議会での発言等について責任を追及することは不可能である。なぜならば,誰からも協議会への参加を託されたわけではないからである。 他方,このように協議会の委員は,政治的には無責任でありながら,他方,首長等は,協議会の議事結果をもとに政策を決定しうる。この場合,首長等が,協議会により導かれた「住民の意見」に基づいて政策を決定したと主張した場合,首長等の政治的責任が宙に浮く可能性は,十分考えられる。 形式上,首長等が最終的政治責任を負うのだとしても,「住民協議会」という条例上の仕組みが,住民協議会とそのもとに形成された「住民の意見」にある種の権威を与え,結果,首長等が負うべき政治的責任を免除する可能性があるというべきだ。 結論として,本来の住民の意見から遊離した住民の意見が形成される可能性を惹起しうる住民協議会制度については,慎重な考慮を要すというべきだろう。 他方,これは住民の市政への参加を拒絶する理由にはならない。住民の意見を市政に反映するためのソースは多様であるべきであると考える。しかし,最終的には首長等が政治的責任を完全に負うべきであり,当該首長等に「住民の意見」を提供するいずれのソースも,特権的地位を与えられるべきではないと解すべきである。
「議会」や「委員会」など様々な市民の意向や意見を汲む仕組みが用意されていますが、このような取り組みにより、一般市民との「対話」が行われることは大変意味があると思います。提案される事柄について、行政として「できること」「できないこと」をきちんと議論し、その過程を含め公開することは「行政としての説明責任を果たす」ことに他ならないと考えます。私はこの取り組みが首長に対して「特権的地位」を与える仕組みになるとは思いません。
>>(自分の主張)しかし,最終的には首長等が政治的責任を完全に負うべきであり,当該首長等に「住民の意見」を提供するいずれのソースも,特権的地位を与えられるべきではないと解すべきである。>>(先生の反論)私はこの取り組みが首長に対して「特権的地位」を与える仕組みになるとは思いません。 ところで,「太刀洗町」ではなく,「大刀洗町」ではないですか? 釈迦に説法とは思いますが,私は別に,首長に対して特権的地位を与えることになると主張はしていませんよね。「住民の意見」を市側に提供するソースのひとつが,条例という公的な枠組の下に置かれることで特権的地位を受ける結果,首長等がそのソースにより示された「住民の意見」を援用することで,首長等の政治的責任が宙に浮きかねないとしているのです。 住民協議会での決議内容は,なまじ「住民の意見」であるため,だれもが否定しにくい側面があるでしょう。しかも住民協議会における「住民の意見」は,「一部の住民の意見」とは見られません。住民協議会という名称を持ち,条例上の公的な制度枠組みのなかに位置づけられ,かつ委員選出に首長が介在しないために,政治的には完全に中立的であり,そのために正統性があると見なされかねない体裁を整えている住民意思形成機関が示す「住民の意見」ですから,その効力は,事実上絶大と言わざるを得ません。 このように,住民協議会とその決議内容たる「住民の意見」には相当程度強力な効力があるにもかかわらず,住民協議会自体が適切に稼働するための担保がされていないのです。 つまりは住民協議会委員において責任をとるための仕組み,すなわち代表者と被代表者との間に緊張関係をもたらすための機構が存在しません。 通常,議員さん方や市長さん方であれば,民意からはずれたと住民から判断された場合,次の選挙で勝つことは難しくなります。場合によってはリコールされることもあるでしょう。だからこそ議員さん方においては,住民との間で絶えざる緊張関係にさらされる結果,より民意に近づこうと行動するために,適切な市政の運営が期待できるのです。 一方住民協議会のほうはどうでしょう。大刀洗町の現行住民協議会制度では,住民協議会委員は,住民から無作為に,本人の希望,首長の意向とは関係なしに選出されます。とすると首長側とのリンクが全くない結果,首長側において任命責任はありません。住民の側においても,ある委員に代表としての機会を与えたとか,何かを託したという認識はないでしょうから,住民と委員との間のリンクもありません。さて,ある委員の見解が本当の住民の意見からずれた場合はどうでしょう。 この場合委員個人にとっては,なんら問題とはならないでしょう。個々の委員は,ただ無作為に選ばれただけであり,任期が終われば無事,住民の一人に戻ります。もともと職業政治家として協議会に参加しているわけではなく,「真の住民の意見」から外れた場合には落選という緊張関係が存在しないので,個々の委員においてより「真の住民の意見」に近づこうとする態度を期待することはできません。と同様,首長側においても自身が任命したわけではなく,条例の規定により自動的に選任されてしまうため,個々の委員の見解等と「真の住民の意見」との関係に気を配る必要はありません。なぜならば,任命責任がないからです。 であるにもかかわらず,住民協議会での決議は,事実上,一般的な「住民の意見」を表すものとして相当強力な効力を持つことになります。協議会で形成された「住民の意見」が「真の住民の意見」から離れ,一人歩きした場合を考えると,きわめて危険であると言わざるを得ません。首長側は,「住民の意見」を重視すべき一般的義務を負っているわけですから,住民協議会の決議内容であるところの「住民の意見」を援用したとしても,首長側にその責任を認めることが困難になることが容易に想定されます。この場合,誰も政治的責任を負わないがために,市政が暴走してしまうことは,現実的に想定できるというべきでしょう。 もっといいましょう。住民協議会を裏から「補佐」するのは事務局ということになるでしょうから,住民協議会が適切に機能しなかった場合,事務方は,責任もとらずに「住民の意見」形成に関わる結果,市政に大きな影響力を行使することが可能となります。はたしてそれは,民主主義のあるべき姿でしょうか。 事務方は本来,自治を実現するための住民の補助者として,住民に奉仕すべき立場にあります。そのような使命,職責を負う事務方が,「住民の意見」形成に事実上大きな影響力を持つことになるのです。 住民協議会制度は,このように,民主主義制度の根幹に関わる問題を含んでいるため,同制度の可否及び内容を考慮するには,代表制民主主義の本質に関する丁寧な議論を要すると考えます。このため,なにかしらの契機になり得るというだけの安易な理由による導入には反対します。 それよりも,議会制度の拡充,すなわち公聴会や参考人質問の充実等,現状の制度をよりブラッシュアップするための方法がありますが,それらがなされたという話を残念ながら聞いておりません。そちらのほうが先ではないでしょうか。 ところで,住民協議会制度を,「未だ発見されていない埋もれた課題」を洗い出すためだけの制度であると限定して位置づけ,住民協議会で導き出された「住民の意見」から一般性を剥奪して制限的なものとすることで,住民協議会制度を導入しても代表制民主主義には影響を与えないと理解することも可能ではないかといえなくもありません。限定的同意します(その場合は,名称に一般的住民の意見を形成する機関ととられかねない性質の語句を使うことは避けるべきでしょう。)。しかし,制度が時を経て変質してしまい,「住民協議会」という言葉だけが一人歩きすることが十分考えられます。新しい制度を作った場合,その制度が消えてなくなるまで,多種多様な影響を多方面に与え続けます。どのような影響が考えられるのかということについて,慎重な議論をしてからでも,遅くはないでしょう。 ただ一ついえるのは,No Silver Bullet ということです。住民の代表者たる首長及び議会に対する不断の監視と住民自治に向けられた絶えざる努力が,住民,すなわち我々には求められているのではないでしょうか。
「住民の代表者たる首長及び議会に対する不断の監視と住民自治に向けられた絶えざる努力が,住民,すなわち我々には求められているのではないでしょうか」そのとおりだと私も思います。しかし、これが田舎程できない、出来にくい体質を持っています。その現状を打破する方法?を考えています。何かよい方法?はありますか?
(私宛の質問かどうかはこの際,置いておいて) 「現状を打破する方法」については,「現状」がどう問題であり,その問題がどういう性質のものであるか,という点が示されていないので,お答えしかねます。ただ,現状の問題が,仮に市民の市政に対する無関心,議会の慢性的機能不全(実質的な審議会化)を指すのだとすれば,現行制度の問題点を洗い出して解決策を探る努力をまずすべきでしょう(それ以前に,市を解体してより小規模な基礎的自治体に改組すれば住民参加,住民自治はより容易になるのではないかという問いもあるでしょう。その点で平成の市町村大合併は重大な問題を引き起こしたといえます。)。 また仮に,同じく「現状」について,市民の市政に対する無関心を根源的問題点だとするならば,市民の市当局に対する監視とそれによる市政の適正化は,それほど期待できません。もともと期待できないのに,そこへさらに監視を難しくする要素を不用意に持ち込むべきではないでしょう。この場合,問題を「打開」せずに,むしろ問題をより深刻化する危険性を含むでしょう。 私の意見は別に,現状を打破するための自治のあり方を求めるものではありません。私の意見は,より間違わなくてすむ方法論を堅持するという観点から,住民協議会という見解を攻撃する目的でなされる,保守的で,消極的な,そしてただひたすらに懐疑的理由に基づくものです。つまりは,住民協議会制度ないしそれに類似する制度が,「現状を打破」するための唯一にして最善の方策であるか否かは,私の意見とはいっさい関係がありません。 市民としてどのようなあり方を目指すのかは,問題とすべきではありません。この問題は結局,市民間の合意に基づいてしか解決されないからです。しかし,市民として,どのようにして自分たちあり方,あるべき姿を決定し,示すのかという方法論は,問題とすべきです。決定プロセスの内容を誤れば,一部の偏った方々の独善的な考えが市民としての一般意思の決定に入り込むことを許容し,かつこれに対する対抗策も用意できないまま,全体が誤った方向に誘導されてしまうことを許すことになりかねないからです。なぜ民主主義が重要とされるのかは,このような観点から,明らかです。そのような痛切な反省にたって,より間違わなくてすむ方法論を市民に保障する観点から,民主主義というものは過去から現在へ受け継がれているのです。 つまりは,より正しい(と誰かが勝手に考えている)ことを実践するよりも,ただただ保守的に,消極的に,ひたすら懐疑的に,より間違わなくてすむ方法論を模索することは,間違いなく市民共通の利益につながります。個人の尊重を死守するためにより間違わなくてすむ方法論は,存在自体が至上の利益であると考えるべきです。我々のうち誰にとっても安全なプロセスのなかで,我々は,我々のあるべき姿を模索すべきなのです。 「住民協議会」制度は,制度自身が「より間違わなくてすむ方法」なのかという問いに答えなくてはなりません。無作為に選出され,かつ実質的にその決議内容が住民の一般的意見と受け取られかねない住民協議会制度は,もともと市政の暴走に対するセーフティーが脆弱な田舎にあっては,「選挙」という最後のセーフティーすらも無効化しかねない,きわめて危険な,民主主義それ自体をも揺るがしかねない存在であると考えます(私自身も,どこかの上から目線ぎみな市議会議員みたく『「住民の市政への参加」は代表制民主主義の根幹にかかわる』ととられかねないことは言いたくないのですが,別に「住民の参加」自体が代表制民主主義を破壊しかねないと言っているわけではないことだけは,ご理解くださいね。「住民の意見」を市長側や議会側に伝達することは大いに推奨すべきですし,そのためのより簡易な手続きを整備すべきでしょう。ただその過程で,どれか一つの「住民の意見」を重点的に,特別に,ことさら特権的に取り扱うことは問題だ,としているだけなのです。)。 ところで話が変わりますが,代表者と被代表者との緊張関係があれば,代表者において,よほどのこと(いわゆる利害の衝突)がない限り,適切な職務遂行が期待出来るわけですから,首長からの中立性を担保しつつ,教育委員会においても実質的に責任をとる構図を組むことは可能と考えます。つまりは教育長を名実ともに教育現場における最高責任者とし,市民による直接選挙で選ぶわけです。たとえ教育長になった者が教育委員会に飲み込まれ,結果,教育委員会が正常に機能しなくなっても,すべては,そのような者を教育長として送り込んだ市民の責任に帰することが出来ます。 とりわけ他の部局間で利害の衝突が起きやすく,かつ高度の独立性を有すべき専門的部局においては,その長を直接選挙で選出するというのが一つの方法として考えられます(加えて,選挙の時期を意図的にずらせば,その場の勢いによる市民の暴走による弊害も緩和出来るでしょう。)。当然,選挙の機会も増えますし,それぞれは専門的領域であるがゆえに,個々で見ると実は市民とかなり密接的です。加えて専門的知見がないと公職者として務まらない上,それぞれの公職を選ぶにあたっては,公職者の職務権限が限定されていることもあり(この点は,個々の公職者の就職後の職務活動を監視しやすくなるということを意味します。),争点は単純化ないし限定化されうるでしょう。そうすると市民の議論は活発になることが期待出来ると考えます。 最終的に,首長の役割は,総合的な調整に限定すればいいということになります。首長が全能である必要はなく,部局間で利害の衝突が起こりえる以上,原理的に不可能です。明確な縦割りと,誰のための縦割りかということが市当局及び市民においてはっきりと意識される必要があるでしょう。(首長,議員以外の公職者の選挙には,その公職により影響を受けうる市民が主体となって投票活動を行うわけですから,実質的には一部の市政に関する一部代表かまたは少数代表の意味があると考えられます。それぞれの領域における代表者として選出された公職者が,最終的には首長による調整と議会の承認のもとで職務を遂行していくわけですから,多数意見の暴走を抑止することも期待出来るのではないでしょうか。) そのように考えれば,現在の首長選挙等でたびたび問題となっているSingle Issue Politicsの弊害もある程度緩和出来ると思うのです。
大刀洗町のフェイスブックに「住民協議会」の試行の第1回会議の報告がアップされています。https://www.facebook.com/tachiarai(2月15日)「住民協議会」の進め方などについては情報を得ていません。推察するに特定の行政課題について現状説明し意見を求める。そのプロセスは公開される。そういう過程を経ることにより行政施策への理解が深まることが期待されます。「市役所内部で検討」「特定の委員で検討」・・・そして結果だけが知らされる。そのようなことができない仕組みのようです。今後の経過にも注目したいと思います。
>>推察するに特定の行政課題について現状説明し意見を求める。そのプロセスは公開される。>>「市役所内部で検討」「特定の委員で検討」・・・そして結果だけが知らされる。そのようなことができない仕組みのようです。 プロセスが公開されても,必ずしも適切な,真なる住民の意見を反映した「意見」が住民協議会の結論として出るわけではないですよね。プロセスが公開されるというのは,あくまでもその意見に耳を傾ける者において,その意見の適切性を判断する上で意味があるだけです。別にプロセスが公開されるといっただけでは,協議会委員に,真なる住民の意見とは何かを踏まえて行動してもらうための動機付けを行うことは困難です。 またさらにややこしい問題が生じかねません。たしかにプロセスも含めて公開されるならば,どのような経緯により協議会の意見が出たのかという事実も踏まえたうえで,一見して明らかに不適当と思われる意見や,あるいは著しく不適当と思われる意見であれば,その意見を斟酌する側においてその排除を行うことも可能となるでしょう。この限りにおいて,首長等が当該意見を利用して住民の意見である旨の抗弁を行うことは,現実的ではないと思われます。他方すべての政治課題,行政課題はかならずしも白黒つけられる性質のものばかりではありません。なかんづく立場によって結論が分かれかねない性質の問題についての住民協議会の意見は,それが一見明らかに不適当と思われる場合か,著しく不適当と思われる場合でない限り,事実上,パブリックな「住民の意見」と見なされる可能性が十分考えられるのです。この場合,住民協議会の意見に不適切とする側において,その意見の不適切性を主張立証しなければならなくなります。本来であれば,その意見を主張する側において,適切性を主張立証しなければならないにもかかわらず,です。 つまりは立証責任の転換のような現象が起きかねません。パブリックな意見は,ただそれだけで強力な説得力を持ちます。そのことが,住民協議会の意見が住民の意見を表すものとして事実上特権的地位を受けることの最大の問題なのです。そうなってしまったら,住民が自己検閲をしかねません。 本来,住民の意見は三者三様,ともすると,一人一人で見解が異なる可能性だってあり得ます。しかし住民一人一人が,かけがえのない住民であるため,彼ら住民の意見は,いずれも平等に扱うべきです。その上で,代表者が責任のすべてを負担して,住民のために政策を決定し,実行していくのです。 住民協議会をどのような制度と位置づけるにせよ,住民の政策に関する意見を公的に求めうるという点自体に,明らかに問題があると言わざるを得ません。そしてこの問題は,透明性云々では解決しがたいと考えます。
どのような施策を行うかは「首長」に任されています。そして「議会」がチェックする仕組み、いわゆる二元代表制です。「住民協議会」でどのような意見が出ようとも基本的にはそれに従う必要はありません。しかし、住民協議会の議論の過程を経ることにより施策への理解は深まると思います。行政の行うことでも、絶対に間違いない施策などありませんから、改善の余地もあるでしょうし、反対の意見もあるでしょう。また、失敗することもあります。その結果責任は「選挙」を通じて取っていくことになりますが、「住民協議会」で行われる過程の公開は、その際の有力な判断材料となると思います。
ところで,住民の一部をなかば強制的(という表現が適切かどうかは別として)に市役所に連れてきて,議論させることにより,住民の意識が高まり(これがなにを意味するのかという問題もあろうが,ここでは問題にしない),ひいては住民理解が高まるといえるのですか?あまりにも現実的ではないと思うのですが。
高まると思います。現実的かどうかは今後「試行」の中で明らかになってくると考えます。住民の一部をどのように選ぶかについては「氏名」「代表」「公募」などがありますが、今回のような無作為抽出という方法により選ばれた方々による「協議会」はそのプロセスを含めよい影響をもたらしよい結果を生むと思います。
>>「住民協議会」でどのような意見が出ようとも基本的にはそれに従う必要はありません。 先生のおっしゃるとおり,現行の大刀洗町の住民協議会制度においては,住民協議会の意見は首長を拘束しません。その点は同意です。しかし,私が今まで示してきた懸念は,住民協議会の意見が公的な意見として,他の住民の意見とは違った意味づけがされかねない点に終始します。施策への理解が深まるか否かを抜きにして,そのこと自体が問題だと言っているのです。>>行政の行うことでも、絶対に間違いない施策などありませんから、改善の余地もあるでしょうし、反対の意見もあるでしょう。また、失敗することもあります。>>その結果責任は「選挙」を通じて取っていくことになりますが、「住民協議会」で行われる過程の公開は、その際の有力な判断材料となると思います 確かに先生のおっしゃるとおり,間違いのない施策など存在しません。すべての施策には何らかの改善の余地がありますし,反対意見もあります。失敗することもあるでしょう。 しかし,私はその点をあまり問題にしていません。住民協議会の意見が公的な住民の意見として受け取られかねない性質を有していることから,住民の意見に従って首長が失敗しても,「仕方がないよね」という雰囲気が醸成されかねない点を問題としているのです。住民協議会がなければ,公的な住民の意見というものは存在しません。首長は,ありとあらゆる住民の意見に耳を傾け,最終的にはすべての責任を負い,施策を決定します。そこには原則として,「仕方がないよね」という雰囲気が生じる余地がないのです。 つまり住民協議会制度は,公的な住民の意見を首長に供給するために,首長が結果責任をとらない事態が生じる可能性を与えることになります。>>(住民の理解は高まるのか,現実的かとの問いに対し)高まると思います。現実的かどうかは今後「試行」の中で明らかになってくると考えます。 住民協議会制度が住民の理解の向上に寄与するというのは定性的なものにすぎません。とすると,住民協議会による住民の理解の向上が現実的か否かという問題も生じるでしょう。現時点で,先生もお認めの通り,住民協議会が住民の理解を向上させるかは,不明です。とすると,先に解決しなければならない現実的諸課題について議論しても遅くはないでしょう。 ところで,住民協議会制度により住民の理解を高めるという先生のご提言ですが,これは一方で住民をひとつのある性質をもった客体と見なし,その教化啓蒙を目指すというものと置き換えることができるのではないかと。とすると一つ問題が生じます。問題の中心は,そこにあるのか,と。 このことは住民の水準が向上すれば無関心は解決されるのかという問いに変換できるかと思います。この場合,水準が向上しても必ずしも無関心は解決されないでしょう。たとえば場企業の株主とかとくにそうでしょう。彼らは,別に自分自身ががんばる必要はない。誰かのがんばりは自分の利益になります。よって株主は,誰か別の人のがんばりにフリーライドしようとするでしょう。つまりは,どのような利益が株主として会社から引き出せるかが問題であり,会社が実際に発展するかどうかに必ずしも関心にありません。そして上場企業である以上,その会社に嫌気がさせばいつでも退出できる。この場合,株主においては会社の動きを具に見守り,いつバイバイするか,だけが問題となります。いわゆる合理的無関心の問題です。 臼杵市においても一緒ですよ。いつでも,引っ越せるから,別に自分ががんばる必要はないという合理的無関心。市が気に入らなくなれば,どこにでも行ける。現に人口流出が相当数発生していませんか? 合理的無関心をいかにして解きほぐすかが問題なような気がします。 仮に合理的無関心が問題の中心にあるのだとしたら,住民協議会制度では絶対に解決できません。無関心なのは,無理解によるのではないからです。彼らは,市の施策なんかどうでもいい。透明性があろうがなかろうが,市政が腐敗しようがどうなろうが,まったく関心にないのです。 この合理的無関心の結果,市政を適切に維持するためのある種の機関として機能するべき市民は,その機能を減退させてきていると認めざるを得ません。そのような状況下において,さらなる不確実要素を増やすわけにはいかないのです。
どのように市民の意見を汲み、市政を執行するかは市長次第。無論「議会」のチェックが前提ですが。「住民協議会」をどのように受け止めるかについても市長次第。その結果の責任は「「選挙」という形でとらねばなりません。>彼らは,市の施策なんかどうでもいい。透明性があろうがなかろうが,市政が腐敗しようがどうなろうが,まったく関心にないのです。そうは思いません。何とか関心を持ってもらいたい。その一つの取り組みが「住民協議会」であると思います。従来の「議会」や「委員会」に興味が湧かなかった方々にも興味を抱いてもらいたい。そういう期待はあります。
>>何とか関心を持ってもらいたい。その一つの取り組みが「住民協議会」であると思います。従来の「議会」や「委員会」に興味が湧かなかった方々にも興味を抱いてもらいたい。そういう期待はあります。 質問の方向性を変えましょう。 現実の市民の一人一人がどのように考えているのかは,我々の認識とは関係がありません。とすると,現実にどのように考えているのか不断の分析が必要となるでしょう。 ところで,近年の市民の市政に対する無関心が無理解からではなく,合理的無関心から生じるものだとしたら,市民が市政に対して無関心であることには,合理的理由があるということになります。 この点,住民協議会制度によって市民の市政に対する関心を取り戻すということは,単に同制度が市民の市政に対する理解を醸成することによって関心を取り戻すのみならず,市民において存在する無関心であることについての合理的理由をも解きほぐすことを意味します。 なぜ住民協議会制度が市民において無関心であることについての合理的理由を解きほぐすこともできると先生はお考えになられるのでしょうか。この合理的理由を解きほぐさなければ,我々の期待は相手方に通じないのです。
>近年の市民の市政に対する無関心が無理解からではなく,合理的無関心から生じるものだとしたら,市民が市政に対して無関心であることには,合理的理由があるということになります。「無関心」である「合理的理由」というものは私には判りません。私は、臼杵市のために「良い」と思う方策を実行する、そういう方向に向かうよう努力する、そういう使命を帯びていると考えています。よい方策を考えるには多くのご意見を頂戴する必要があります。市民が「無関心」であるとNAGIさんおっしゃいますが、仮にそうであればどのような方策をとるべきとお考えでしょうか?
「合理的無関心」という言葉でなで切りにするのはちょっと乱暴だと思うんですよ。そもそも「合理的無関心」という言葉で言うところの合理性とは、関心を持って何か行動するコストよりも無関心で何もしないでいるコストの方が少ない、よって無関心を選択する、という選択の合理性のみを指しており、その背景にある文脈に言及するものではありません。何もしないことそれ自体に、解きほぐせないような合理的理由があるという意味では無いですよね。違う言い方をするなら、合理的無関心という言葉で言う合理性の及ぶ範囲には、積極的な市政への関わりの可能性が含まれないのですよ。他でも無い自分が、他でも無いこの臼杵市に住んでいるのだから、何かしら積極的に市政に関わらなければと言う義務感は、私たち住民には当然ありますよ。近所のどぶ掃除とか公民館の掃除とか、僕たち積極的に関わっていますよね。それ以上の事柄になると、差引マイナス、俺は知らん、って選択をしちゃうんですよ。問題は、市政に関わる事柄について、何がイージーで何がたヨダキイのかという住民の判断指標が何に由来するのかということ。地域が抱える本質的民度の低さかもしれないし、無知蒙昧さなのかも知れないし、役所の職員への個人的感情なのかも知れないし、いろいろあるでしょうね。もし住民評議会とかいうのが、近所のどぶ掃除以上の市政への関わりについて、ハードルを下げるのであれば、大変有意義なんじゃ無いかと思いますよ。ヨダキそうに見える物事というのは、要素とその関連を一個づつ整理してゆけば、以外とイージーに見えてくるものです。
(追伸)ただ、臼杵んしの合理的価値判断基準についてなんだけど、「自分が他人より得をするのが善」=「他人が自分より損をするのが善」という風土・気質があるよね。NAGIさんが「合理的無関心」って言葉を出すのもよくわかるんだよね。
ありがとうございます。「関心を持って何か行動するコストよりも無関心で何もしないでいるコストの方が少ない、よって無関心を選択する」「自分が他人より得をするのが善」=「他人が自分より損をするのが善」何となく理解できます。それでもなお、市民参加のハードルを下げ、行政任せでは無く「自分事」と捉える、そういう政治(行政)を目指したいと思うところです。
まず第一点。そもそも,合理的無関心の観点から,なで切りにするようには論じていないということ。「もし合理的無関心が中心にあったら」と仮定した上で,そのときはどうするのだ,ということを言っているに過ぎないということ。そのような可能性も検討すべきではないか,ということです。当然合理的無関心の意義,背後にある文脈等等についての検討が必要になります。 なぜ合理的に無関心になってしまうのかが判明すれば,参加するためのコストを下げるといった対応もできるようになるでしょう。 第二点,これまでのコメントの一切は,住民協議会制度の是非についての問題をその直接の対象としてなされたものであり,住民の無関心とか無理解といった現象を直接対象とするものではないこと。従って,住民の無関心とか無理解についてのコメントを求めることは,住民協議会それ自体についての議論から離れてしまうのではないかと考えられること。 私はこれまで,「住民協議会」という名称をもった,市の施策についての意見すらも述べることが出来る権限が与えられた,パブリックな機関が提出した意見が,あたかも「住民一般の意見」として扱われかねない「可能性」を指摘し,住民協議会の意見が,住民一般の意見として扱われた場合には,その重さゆえに,首長等の政治責任を事実上無効化するかもしれない「危険性」を指摘してきました。その背後には,地方ほど実質的な住民参加が脆弱ではないか,市民,首長,議会間の相互牽制,相互抑制の機能が脆弱ではないかという問題意識があるためです。 いったん政治が暴走を始めたら,なかなか止めることは出来ないですよ。ブレーキ装置をそんなかんたんに外すべきじゃないです。首長は,どういう意見を住民の意見としてくみ取るのかも含めて,完全に自分の責任で市政を運営すべきなのです。それこそが首長に対するブレーキ装置として機能します。そこに「住民の意見」と銘打った「住民協議会決議」が出てきたらどうでしょう。 第三点,一応,住民参加のあり方について。住民参加のあり方はべつに住民協議会制度だけではないはずです。住民協議会制度は,住民の一部を役所に召し上げて,「そち,何か意見はあるか?」と聞くようなものです。なんと尊大なことでしょう。普通は,意見を聞きたい人のところに行って,「お願いですから,話を聞いてください」と言うべきでしょうに。 そこが住民協議会制度を市民感覚から見たときに出てくる,一番の難点だと思います。 でもフォーマルでパブリックな制度にする必要は必ずしもありません。インフォーマルに,区の会合なんかに職員方や議員諸先生が顔を出したりして話をするだけでもいい。議会が地方まで出張ってゆき,日曜日とかに地方公聴会,出張公聴会をするのも良いでしょう。委員会を外でやるというのもありでしょう(どの地方にもだいたい公民館があるので,不可能ではないはずです。)。 市や有志の議員諸先生が主催するないし参加する形の勉強会をするでもいい(地域の問題発見検討会とか。)。 小学校や中学校で地方自治における住民参加の重要性について,その第一線でがんばられておられる議員諸先生が説くということも効果があるのではないでしょうか。 思うに,開かれた市政というのは,単に市役所のドアが開いていることだけでなく,市役所の方から外に向けて手を伸ばしたり,足を運んだりするということでもあるでしょう。住民参加を高めようと思えば,(役所の側から)積極的にそうすればいいんです。政治任命を増やしたり人事交流を活発にしたりして役所の入り口に回転ドアを置くというのも一つのアイディアでしょう。 このような意味で,市当局にはさらなる積極性が求められることと考えます。 まだまだ実践されていないアイディアは無数にあるはずです。見方を変えるべきです。住民参加は,どこかで,住民が統治機構に参加していく図式で捉えられることがあったかと思います。でも,統治機構,すなわち自治体の方から住民の方に出て行くことがあってもいいのではないでしょうか。 こうした,普段からのざっくばらんな交流こそ,我々が最終的に目指すべき住民参加のあり方ではないかと考えます。合理的無関心の文脈にもよりますが,通常は,自分も他の役に立ちたいという希望自体はだれもが持っているはずですから,普段からの接点を増やすことは,彼らが行動する上でのコストを確実に低減させるでしょう。ひいては自発的な住民参加も期待出来るようになります。 政治任命ではないごく少数の委員から構成される住民協議会制度の議論は,それらをし尽くしてからでもいいと思います。
> 住民協議会制度は,住民の一部を役所に召し上げて,「そち,何か意見はあるか?」と聞くようなものです。なんと尊大なことでしょう。普通は,意見を聞きたい人のところに行って,「お願いですから,話を聞いてください」と言うべきでしょうに。なるほど、まったく同感です。ところで、有志のあつまりというのが現在いくつかあるのでしょうが、そのような場が有用な政策議論につながっている例はあるんでしょうか?
有用な政策議論とするためには、まずは「施策」を理解してもらうことが必要です。臼杵市においては有志団体との「車座トーク」が代表例でしょうが「聞き置く」という姿勢であり、本気で討議するような場面に遭遇したことはありません。「住民協議会」は公開で行われますので、役所の側も本気で理解してもらう必要があり、有用な政策議論に繋がるのではないかと期待するところです。
>役所の側も本気で理解してもらう必要があり、有用な政策議論に繋がるのではないかと期待する やっと若林先生が住民協議会を導入したいと考える理由が見えてきた気がします。ようは役所に「本気」で取り組んでほしいということでしょうか。 しかし,協議会自体を透明化しても事務方が協議会自体を事実上乗っ取ってしまえばそれまでと同じか,それ以上に状況が悪化しかねないと考えます。教育委員会と似た状況になりかねません。委員とそれを補佐する事務局どちらもがしっかりしなければ形骸化するでしょうし,形骸化したときの危険性は極めて重大だと考えます。協議会に首長がかかわるわけではないので,協議会をひとつのきっかけとして首長が事務方に飲み込まれてしまう危険性をはらむと言うべきでしょう。 納税者のニーズへの対応は,かならずしも役所だけが遂行できるわけではありません。役所は組織が大きいので,小回りが効きづらいと認識すべきではないかt考えます。役所だけで,納税者の多様なニーズをまかなえるとは,考えづらいわけです。 とするとどうすべきか。役所の,組織規模が大きく,小回りが効かないという特徴を活用し,住民サービスの総合百貨店的な位置づけにすればいいでしょう。しかし,少数ではあっても多様な納税者のニーズがあることも事実。そこで小回りの効くNPOや住民活動団体がその役割を担う。そこで,先に述べたように,相互な人的交流(役所から民間へという一方的な交流ではありませんよ。民間から役所に人間を入れるということが重要です。)を行うのです。 つまりは,回転ドア方式の役所運営を行うのです。 回転ドア方式の交流人事で役所に入った人たちは,役所で一生を過ごすわけではありません。いずれ元居た場所に戻る等するわけです。とすると,役所の慣行や無言の圧力にとらわれずに政策議論に参加できると期待出来ます。 もちろん回転ドア方式の役所運営は,やり方を間違えれば金権政治の温床になりかねないとか,利害の衝突が起こる可能性を内包するものです。その点解決すべき問題がないとはいえません。 他方,現在の閉鎖的な人事による利害の衝突は,自己保身と住民の利益とを天秤にかける,つまりは何もしない方向に向かう利害の衝突だから,公職に就くことでどんな利益が自分(ないし元いた団体)に得られるだろうかという,何かをする方向に向かう利害の衝突よりはましだ,ということが出来るかも知れません。 ですが,金権政治だって透明化を図れば抑制できますし,利害の衝突が起きうることは任用時の調査や,執務の監視を通じてその弊害を緩和することが可能でしょう。またそれまで所属していた団体も住民活動団体であることが多いと考えられますので,それまでの所属団体の利益も考慮しつつ執務を行うということは,住民のニーズを執務に反映させることにつながると考えます。細やかな住民ニーズの反映は,重要でしょう。 他方,自己保身と住民の利益を天秤にかけたときに生じる利害の衝突は,その性質上,解決の方法がありません(職員のがんばりにかかわらず,臼杵市役所というものは,直ちに潰れません。臼杵市が発展しても,その恩恵に直接与れるわけでもなければ,その自覚がなかなか感じられないこともあるでしょう。逆に職員は,ヘマをしてしまうと,さっさと隅に追いやられるということがあり得ます。なにもしなくても,自分の状況は変わらず,またヘマをするとその不利益だけはしっかりと受ける環境のなかで,どうしたら,住民のためにがんばってもらうという動機付けが出来るでしょうか。自分の生死と所属する組織の生死が一致しないために生じる事なかれ主義は,少々のことでは解決できないと考えられます。)。 より決定的なのは,状況の悪化です。もう何もしないままで放置することは,出来ないと言うべきでしょう。とすると少々のリスクをとってでも,そのリスクを管理しつつ市政を運営すべき方策を見いだすべきだと考えます。解決しがたいと分かっている問題に取り組むよりは,解決すべき問題が多々あるけれども,新たな可能性にかけてみるべきだと思います。 いずれにしても,回転ドア方式の役所運営は,役所に新風を吹き込み,議論を活性化させるという意味では,住民協議会制度よりもよほど効果的ではないかと考えます。事務方に積極的な政策議論をするよう働きかけるのではなく,事務方内部からの革新を図るために,抜本的な解決を図る方法の一つになるでしょう。その点,住民協議会では,事務方内部からの革新を図ることはできません。住民協議会が,役所内部にあって外部的,あくまでその実質,役所に意見を供給する役割しか担わないからです(住民協議会さえ乗り切ればOKということになりかねないでしょう。)。
「住民協議会」にはNAGIさんが言われるような「責任」も「権限」もないと思います。無作為抽出ですから普段は「行政」に関心の無い方々が集まります。その方々に「施策」の中身を説明して理解を求め、感想なり意見なりをいただいてよりよい施策に磨き上げるというプロセスです。大事なことは「公開」されるということ。その過程に触れる市民も同じように考え、感想なり意見なりを抱くということです。その繰り返しが施策の透明性を担保し、市役所の説明責任を果たすと共に民度が上がる結果に繋がると思っています。回転ドア方式の役所運営については大変興味深い提案です。かつて私も県庁時代に「必要かつ効果的」と考えたものです。役所改革の「劇薬」と言えます。しかし、一方で民間から役所に入った人が本当に期待される役割を果たしうるかという懸念もあります。民間から校長先生を採用するというような事例はありますがなかなか困難な様子です。ましてや「役所の本丸」想像に難くありません。NAGIさんが役所に入れば「事なかれ主義」を打破できるかも知れませんね。なによりも、首長が「民間(の感覚を持ちつつ)」から「役所」に入って改革するのが一番手っ取り早い方法ですね。副市長もそのような感覚を持った人を起用すれば、人事交流を行う以上の結果をもたらすことができます。
回転ドア方式の役所運営は,役所改革のための劇薬として機能します。そのつかいかたを間違えれば心停止を引き起こしかねません。副作用も極めて強烈です。しかし,たとえそうであっても,慎重なリスク管理のもと使用すれば効果的な治療薬として機能するでしょう。ある病を直そうと思えば,治療の利益に見合う侵襲リスクの受入れを検討すべきです。 民間からの校長先生を採用するという事例を持ち出されましたが,私としては,いきなり終局的決定権限を持つ役職に民間人を据えればいいとまでは言っていません。民間から入られた方々は往々にして行政がどのように執務を行うべきかということにしてご存じではないと思われますので,ともすると住民を巻き込んだ大問題を引き起こしかねません。 民間から校長先生や副校長先生を公募する大阪市の試みは,採用基準の問題,民間から採用された方々へのフォローに欠けが見られたのではないか(研修も含め)等等の理由があって問題を引き起こしましたが,これらの問題点は,回転ドア方式の役所運営を考えるにあたって,いろいろと示唆を与えるものと考えられます。 私が唱える回転ドアは,役所における内なる議論を活性化させることを主眼とします。トップダウンないしミドルダウンの改革を図るものではありません。その点,民間から入られた方々に決定権限を与える必要はかならずしもありません。 事なかれ主義化した役人さんの隣で,ともすると自分の利益のために動きがちな口うるさい人が,毎日毎日,もっともらしいことを言えば,必然的に両者の間に緊張が生じます。自分のためにも意見をしかねない人の共犯になりたくないと考えるであろう役人さんは,自分自身の利益のためにも健全な批判意識をもって議論をせざるを得ません。 なぜならば,民間から入られた方々が自分ないし自分がもといた組織のために,不当な意見をし,かつそのことが市役所内部で取り上げられ,政策として実行された場合,当時議論に関与し反対しなかった者は全員,共犯の片棒を担いだと名指しされかねないからです。反対意見を明確にしない限り,当該意見に賛成したものと推定するという部局の対外連帯責任的雰囲気が作られるとなお効果的でしょう(他方「気づけなかった」「見抜けなかった」というような言い訳も可能ですが,そのような言い訳をする場合,自ら積極的に第三者に対して,自らの職員としての能力の限界を認めなければならなくなります。自身のメンツのためにも,役人さんにおいて,なるべくそのような言い訳をしなくてすむよう行動すると期待出来るでしょう。)。 他方,民間から入られた方々の意見が妥当であった場合,この意見をつぶすことは,自らの直接的言動行動により,意見をつぶすことにほかなりません。自ら責任をもってその意見をつぶすことになります。 とすると回転ドア方式の役所運営を行うことによって,役人さんにおいて,市民の利益になると考えられる意見には邪魔をさせず,反面,市民の不利益になりそうな意見については真面目に議論するよう誘導できるのではないでしょうか。 もっとも両者の力関係に事実上差異があれば,力関係が議論の結果に影響を与えかねません。その点,民間から招く人の員数,配置等については慎重な配慮を要するでしょう。どちらが強すぎても,この試みは失敗するからです。 首長が「民間(の感覚を持ちつつ)から役所」に入って改革をすれば一番手っ取り早いですし,そのことが理想なのも事実です。ですが,一人で出来ることには限度があるのではないでしょうか。 昔私の恩師が言った,「リーダーが全てをすることは出来ないし,するべきではない。リーダーは,自身がすべきことを誰かにさせる役割を担う」という言葉を思い返します。首長が一人一人の職員との議論を通じて改革をしていくなどということが出来ないでしょうし,なまじ権限に差異がありすぎるので,妥当な議論が出来るか極めて疑問です。 しかし,首長がボトムアップの改革を絶えず促す仕組みを作ってしまうということは,現実的な対応策になると考えます。つまり首長は絶えざる改革のための制度を整え,実際の改革は誰かにやらせるのです。 この回転ドア方式によれば,住民の意見に基づいた改革の端緒を作ること(住民の意見の役所内部での反映),及びその適切性を担保すること(専門家としての役人さんが自身の利益のためにも住民の意見の適切性を住民のために論じること),二つが同時に達成可能になると考えます。
民間から課長を招聘ですか。。市役所内部に極度の緊張を強いるようなことをやってのける首長がいるかどうかが問題ですね。そのような荒業をとれる市長なら、市民感覚を持ちつつ成果を上げるのは容易な気がします。そのような例としては希ですが「阿久根市」の竹原市長が思い浮かびます。「住民至上主義」を掲げ、市民に良かれと思う施策を過激に行いました。あまりに過激なやり方に業を煮やした市民によって終焉を迎えましたが、もう少し穏便に粘り強くあれば、長期にわたって市長を務められたのではと残念に思うところです。また最近では橋下市長の名前が挙げられると思います。
>>民間から課長を招聘ですか。。市役所内部に極度の緊張を強いるようなことをやってのける首長がいるかどうかが問題ですね。 極度の緊張では意味がありませんし,そもそも私は,「課長」という言葉すら使っていません。加えて,前回のコメントでは,「終局的な決定権限」を持つ役職へ民間から人を入れれば新たな風が巻き起こり,必ず議論が活性化するとはしていませんし,役所の職員さんと民間から入ってくる人たちとの関係性を一切無視して,とにかくよそ様を入れれば良いのだというふうにはしていません。 むしろその逆で,混乱しない行政という住民の利益も考えたうえで,「終局的な決定権限」を持つワンマン化しかねない役職への天上りさん方の登用はなるべくさけ,職員相互間に適度な緊張関係を生み出し,相互の活発な議論が起こるよう,民間からの天上りさん方を組織上どのように位置づけるべきかという点には「慎重な配慮」が必要で,この配慮を欠く場合は失敗すると述べているはずです。天上りさん方と役人さん方のパワーバランスがイーブンになるよう維持できなければ,この企みは必ず失敗します。 もし天上り組にパワーバランスが傾いた場合,天上りさん方において,健全な議論なしに力で押し切ることを可能とし,役人さん方に期待すべき専門家としての助言機能や規制的機能といったセーフティー機能が減殺されることでしょう。その場合行政の大混乱が生じかねません。 他方役人さん方にパワーバランスが傾けば,もともと問題としていた事なかれ主義が解決できません。 パワーバランスがイーブンであれば,一方が他方を力ではなく議論で説得し,賛同してもらわないといけない状況を作り出すことができます。最終的には役人さん方が決定権限を握るにしても,です。 このダブルチェック機能は双方のパワーバランスがイーブンのときしか機能しません。機能する条件が厳しく,また機能しない場合の弊害が大きいと考えられたために「劇薬」という表現を使用したのです。 最後に,ここでの回転ドアの話は,どのように起案,討論,決定をやっていくのかという「プロセス」についてのものであり,その限りで政治的に中立的です。ゆえに今回の議論においては,その性質上個別具体的に「住民至上主義」的過激な施策を行うことを一切前提としていないので,先生ご指摘の点は,今回の議論には当てはまらないというべきです。
私としては一番最適なポジションとして「課長」かなと思ったところです。パワーバランスが重要とのことですが、民間から招聘される人にも関係するでしょうし、市役所の部門にも関係しそうですね。NAGIさんはどのようなポジションがパワーバランスの点からよいと思われますか?
一般には個々の役所の実情,市民の実情,すなわち市民活動団体の実態等々を踏まえて,客観的にパワーバランスがイーブンとなるように制度設計をしなければならないということになるでしょう。ゆえに個別具体的にこの質問に答えようと思えば,事前に慎重な調査が欠かせません(制度導入後も絶えざる調査が必要になるでしょう。)。 実際,どの程度役人さんにおいて事なかれ主義が蔓延しているのかが具体的に評価できているわけではありません。事なかれ主義自体が定性的であり,定量的に評価できるかという点で微妙な要素があるからです。 また個々のパワーも定量的に評価できるかという疑問があります。 本稿での回転ドアはあくまでも事なかれ主義を打破ないし緩和し,活発な議論を巻き起こすことをその目的とします。ゆえに最終的には最適値を求めるために試行錯誤となるでしょう。 ところで私見としては,これまでの議論を通じて一定程度の方向性は見いだせるかと思います。 1) (勢力対等の原則)天上り組さん方のポジションは,天上り組さん方が役人さん方から客観的にも実質的にも無視できるような状況を引き起こすものであってはならず,また天上り組さん方のポジションは,天上り組さん方が客観的にも実質的にも役人さん方を凌駕するような状況を引き起こすものであってはならない。 2) (参加保障の原則)天上り組さん方のポジションは,実質的にも客観的にも,日常的かつ継続的な,天上り組さん方と役人さん方との精緻な議論の展開を可能とすることを保障するものでなければならず,また天登り組さん方のポジションは,単に意見を述べる役割を担うにとどまらず,内部的意思決定に十分関与できるものでなければならない。 3) (終局的権限不保持の原則)天上り組さん方のポジションは,可否同数による議論の停滞から最低限の行政の執行を保護するために終局的決定権限を掌握しないことが望ましい。
3)については,議論の「停滞」というよりは「膠着」と言うべきでしょうか。いずれにしても行政の停滞を引き起こしかねない要因となります。 そこで,批判を受ける素地を十分残した上での議論打ち切りの手続き,すなわち,実務担当の側において誰かに,終局的決定権限を持たせる必要があると考えます。誰もが責任を負わず,部局における対内対外的意思決定を行うにあたって,常に全会一致ないし過半の一致を求めるならば,当該部局において無責任が生じかねないと考えます。 しかし,これはあくまで行政の機能不全を防ぎ,住民の利益を保護するためのものです。とすると行政の仕組みに詳しい役人さん方が終局的決定権限を掌握するのが望ましいのではないかと考えられます。
以下のとおり,微妙に訂正。 訂正後の事項: どちらも「役人さん」には変わりありませんが,従来から役所に勤めておられるいわゆる役人さんのことを便宜上「役人さん方」といい,回転ドア方式により役所に入られた方々を「天上り組さん方」と便宜上言います。 1) (勢力対等の原則)天上り組さん方のポジションは,内部的意思形成の際,役人さん方が,天上り組さん方及びその意見を無視できるようなものであってはならず,かつ天上り組さん方が,一方的ないし支配的に振る舞えることを許すものであってはならない。 2) (参加保障の原則)天上り組さん方のポジションは,役人さん方及び天上り組さん方間における日常的かつ継続的な政策論議の展開を保障するものでなければならず,かつその地位は,内部的意思決定に十分関与できるものでなければならない。 3) (終局的権限不保持の原則)天上り組さん方のポジションは,終局的決定権限を掌握せず,役人さん方において,責任を負ってこれを担うのが望ましい。
「住民協議会」という表現を使っているが,正確に住民の意見をくみ取ることができるか,つまり実質的に機能しうるか疑問である。問題点は大きく3つ。住民の代表としての住民協議会委員(または協議会)の存在する根拠,委員として選任される者の適切性,そして協議会が実質的に機能しなかった場合の問題,とりわけ政治的責任についての問題,である。
返信削除問題点第一について。太刀洗町の協議会制度においては,委員を住民から無作為抽出する方法により選任することとしており,この点,なぜ住民のうち一部の者が住民としての共同の意思を示すのかということについて根拠を示せていない。たとえば,議会制度であれば,議会の構成員たる議員は住民による選挙により選ばれており,そこには住民意思が存在すると考えることもできるだろう。
問題点第二について。委員を住民から無作為抽出する方法により選任されるとしているため,事実上住民の代表として機能する委員となる者の水準について問題とされていない。
協議会をそれなりの水準で機能させようとするならば,自ら問題意識を持ち,審議事項について積極的に調査研究し,協議会の場で適切な意見表明ないし主張をし,討議に,実質的にも参加できなければならない(この点,事務局と対等に渡り合うことが出来るというのは,協議会を充実させる上で極めて重要なことと見ることができよう。)。
この点,住民のうちから無作為で委員を選出するというのは,実質住民の代表として住民意思の擬制に関与する委員を,協議に参加し討議するための基礎的能力すら検討せずに選出するというに等しく,協議会が正常に稼働するための担保が現状されているとは解しがたい。
とりわけ一番懸念すべきは,問題点第三,すなわち住民協議会が,実質的に機能していない場合にあっても,ある政策に対し「住民の意見」として住民の承諾があると擬制するための装置になり得る,ということである。この場合,「住民の意見」とされた見解について責任を負う主体が存在しないこともあり,問題である。
住民協議会の委員は無作為抽出されている結果,事実上協議会での発言等について責任を追及することは不可能である。なぜならば,誰からも協議会への参加を託されたわけではないからである。
他方,このように協議会の委員は,政治的には無責任でありながら,他方,首長等は,協議会の議事結果をもとに政策を決定しうる。この場合,首長等が,協議会により導かれた「住民の意見」に基づいて政策を決定したと主張した場合,首長等の政治的責任が宙に浮く可能性は,十分考えられる。
形式上,首長等が最終的政治責任を負うのだとしても,「住民協議会」という条例上の仕組みが,住民協議会とそのもとに形成された「住民の意見」にある種の権威を与え,結果,首長等が負うべき政治的責任を免除する可能性があるというべきだ。
結論として,本来の住民の意見から遊離した住民の意見が形成される可能性を惹起しうる住民協議会制度については,慎重な考慮を要すというべきだろう。
他方,これは住民の市政への参加を拒絶する理由にはならない。住民の意見を市政に反映するためのソースは多様であるべきであると考える。しかし,最終的には首長等が政治的責任を完全に負うべきであり,当該首長等に「住民の意見」を提供するいずれのソースも,特権的地位を与えられるべきではないと解すべきである。
「議会」や「委員会」など様々な市民の意向や意見を汲む仕組みが用意されていますが、このような取り組みにより、一般市民との「対話」が行われることは大変意味があると思います。
削除提案される事柄について、行政として「できること」「できないこと」をきちんと議論し、その過程を含め公開することは「行政としての説明責任を果たす」ことに他ならないと考えます。
私はこの取り組みが首長に対して「特権的地位」を与える仕組みになるとは思いません。
>>(自分の主張)しかし,最終的には首長等が政治的責任を完全に負うべきであり,当該首長等に「住民の意見」を提供するいずれのソースも,特権的地位を与えられるべきではないと解すべきである。
削除>>(先生の反論)私はこの取り組みが首長に対して「特権的地位」を与える仕組みになるとは思いません。
ところで,「太刀洗町」ではなく,「大刀洗町」ではないですか?
釈迦に説法とは思いますが,私は別に,首長に対して特権的地位を与えることになると主張はしていませんよね。「住民の意見」を市側に提供するソースのひとつが,条例という公的な枠組の下に置かれることで特権的地位を受ける結果,首長等がそのソースにより示された「住民の意見」を援用することで,首長等の政治的責任が宙に浮きかねないとしているのです。
住民協議会での決議内容は,なまじ「住民の意見」であるため,だれもが否定しにくい側面があるでしょう。しかも住民協議会における「住民の意見」は,「一部の住民の意見」とは見られません。住民協議会という名称を持ち,条例上の公的な制度枠組みのなかに位置づけられ,かつ委員選出に首長が介在しないために,政治的には完全に中立的であり,そのために正統性があると見なされかねない体裁を整えている住民意思形成機関が示す「住民の意見」ですから,その効力は,事実上絶大と言わざるを得ません。
このように,住民協議会とその決議内容たる「住民の意見」には相当程度強力な効力があるにもかかわらず,住民協議会自体が適切に稼働するための担保がされていないのです。
つまりは住民協議会委員において責任をとるための仕組み,すなわち代表者と被代表者との間に緊張関係をもたらすための機構が存在しません。
通常,議員さん方や市長さん方であれば,民意からはずれたと住民から判断された場合,次の選挙で勝つことは難しくなります。場合によってはリコールされることもあるでしょう。だからこそ議員さん方においては,住民との間で絶えざる緊張関係にさらされる結果,より民意に近づこうと行動するために,適切な市政の運営が期待できるのです。
一方住民協議会のほうはどうでしょう。大刀洗町の現行住民協議会制度では,住民協議会委員は,住民から無作為に,本人の希望,首長の意向とは関係なしに選出されます。とすると首長側とのリンクが全くない結果,首長側において任命責任はありません。住民の側においても,ある委員に代表としての機会を与えたとか,何かを託したという認識はないでしょうから,住民と委員との間のリンクもありません。さて,ある委員の見解が本当の住民の意見からずれた場合はどうでしょう。
この場合委員個人にとっては,なんら問題とはならないでしょう。個々の委員は,ただ無作為に選ばれただけであり,任期が終われば無事,住民の一人に戻ります。もともと職業政治家として協議会に参加しているわけではなく,「真の住民の意見」から外れた場合には落選という緊張関係が存在しないので,個々の委員においてより「真の住民の意見」に近づこうとする態度を期待することはできません。と同様,首長側においても自身が任命したわけではなく,条例の規定により自動的に選任されてしまうため,個々の委員の見解等と「真の住民の意見」との関係に気を配る必要はありません。なぜならば,任命責任がないからです。
であるにもかかわらず,住民協議会での決議は,事実上,一般的な「住民の意見」を表すものとして相当強力な効力を持つことになります。協議会で形成された「住民の意見」が「真の住民の意見」から離れ,一人歩きした場合を考えると,きわめて危険であると言わざるを得ません。首長側は,「住民の意見」を重視すべき一般的義務を負っているわけですから,住民協議会の決議内容であるところの「住民の意見」を援用したとしても,首長側にその責任を認めることが困難になることが容易に想定されます。この場合,誰も政治的責任を負わないがために,市政が暴走してしまうことは,現実的に想定できるというべきでしょう。
もっといいましょう。住民協議会を裏から「補佐」するのは事務局ということになるでしょうから,住民協議会が適切に機能しなかった場合,事務方は,責任もとらずに「住民の意見」形成に関わる結果,市政に大きな影響力を行使することが可能となります。はたしてそれは,民主主義のあるべき姿でしょうか。
事務方は本来,自治を実現するための住民の補助者として,住民に奉仕すべき立場にあります。そのような使命,職責を負う事務方が,「住民の意見」形成に事実上大きな影響力を持つことになるのです。
住民協議会制度は,このように,民主主義制度の根幹に関わる問題を含んでいるため,同制度の可否及び内容を考慮するには,代表制民主主義の本質に関する丁寧な議論を要すると考えます。このため,なにかしらの契機になり得るというだけの安易な理由による導入には反対します。
それよりも,議会制度の拡充,すなわち公聴会や参考人質問の充実等,現状の制度をよりブラッシュアップするための方法がありますが,それらがなされたという話を残念ながら聞いておりません。そちらのほうが先ではないでしょうか。
ところで,住民協議会制度を,「未だ発見されていない埋もれた課題」を洗い出すためだけの制度であると限定して位置づけ,住民協議会で導き出された「住民の意見」から一般性を剥奪して制限的なものとすることで,住民協議会制度を導入しても代表制民主主義には影響を与えないと理解することも可能ではないかといえなくもありません。限定的同意します(その場合は,名称に一般的住民の意見を形成する機関ととられかねない性質の語句を使うことは避けるべきでしょう。)。しかし,制度が時を経て変質してしまい,「住民協議会」という言葉だけが一人歩きすることが十分考えられます。新しい制度を作った場合,その制度が消えてなくなるまで,多種多様な影響を多方面に与え続けます。どのような影響が考えられるのかということについて,慎重な議論をしてからでも,遅くはないでしょう。
ただ一ついえるのは,No Silver Bullet ということです。住民の代表者たる首長及び議会に対する不断の監視と住民自治に向けられた絶えざる努力が,住民,すなわち我々には求められているのではないでしょうか。
「住民の代表者たる首長及び議会に対する不断の監視と住民自治に向けられた絶えざる努力が,住民,すなわち我々には求められているのではないでしょうか」そのとおりだと私も思います。しかし、これが田舎程できない、出来にくい体質を持っています。その現状を打破する方法?を考えています。何かよい方法?はありますか?
返信削除(私宛の質問かどうかはこの際,置いておいて)
返信削除「現状を打破する方法」については,「現状」がどう問題であり,その問題がどういう性質のものであるか,という点が示されていないので,お答えしかねます。ただ,
現状の問題が,仮に市民の市政に対する無関心,議会の慢性的機能不全(実質的な審議会化)を指すのだとすれば,現行制度の問題点を洗い出して解決策を探る努力をまずすべきでしょう(それ以前に,市を解体してより小規模な基礎的自治体に改組すれば住民参加,住民自治はより容易になるのではないかという問いもあるでしょう。その点で平成の市町村大合併は重大な問題を引き起こしたといえます。)。
また仮に,同じく「現状」について,市民の市政に対する無関心を根源的問題点だとするならば,市民の市当局に対する監視とそれによる市政の適正化は,それほど期待できません。もともと期待できないのに,そこへさらに監視を難しくする要素を不用意に持ち込むべきではないでしょう。この場合,問題を「打開」せずに,むしろ問題をより深刻化する危険性を含むでしょう。
私の意見は別に,現状を打破するための自治のあり方を求めるものではありません。私の意見は,より間違わなくてすむ方法論を堅持するという観点から,住民協議会という見解を攻撃する目的でなされる,保守的で,消極的な,そしてただひたすらに懐疑的理由に基づくものです。つまりは,住民協議会制度ないしそれに類似する制度が,「現状を打破」するための唯一にして最善の方策であるか否かは,私の意見とはいっさい関係がありません。
市民としてどのようなあり方を目指すのかは,問題とすべきではありません。この問題は結局,市民間の合意に基づいてしか解決されないからです。しかし,市民として,どのようにして自分たちあり方,あるべき姿を決定し,示すのかという方法論は,問題とすべきです。決定プロセスの内容を誤れば,一部の偏った方々の独善的な考えが市民としての一般意思の決定に入り込むことを許容し,かつこれに対する対抗策も用意できないまま,全体が誤った方向に誘導されてしまうことを許すことになりかねないからです。なぜ民主主義が重要とされるのかは,このような観点から,明らかです。そのような痛切な反省にたって,より間違わなくてすむ方法論を市民に保障する観点から,民主主義というものは過去から現在へ受け継がれているのです。
つまりは,より正しい(と誰かが勝手に考えている)ことを実践するよりも,ただただ保守的に,消極的に,ひたすら懐疑的に,より間違わなくてすむ方法論を模索することは,間違いなく市民共通の利益につながります。個人の尊重を死守するためにより間違わなくてすむ方法論は,存在自体が至上の利益であると考えるべきです。我々のうち誰にとっても安全なプロセスのなかで,我々は,我々のあるべき姿を模索すべきなのです。
「住民協議会」制度は,制度自身が「より間違わなくてすむ方法」なのかという問いに答えなくてはなりません。無作為に選出され,かつ実質的にその決議内容が住民の一般的意見と受け取られかねない住民協議会制度は,もともと市政の暴走に対するセーフティーが脆弱な田舎にあっては,「選挙」という最後のセーフティーすらも無効化しかねない,きわめて危険な,民主主義それ自体をも揺るがしかねない存在であると考えます(私自身も,どこかの上から目線ぎみな市議会議員みたく『「住民の市政への参加」は代表制民主主義の根幹にかかわる』ととられかねないことは言いたくないのですが,別に「住民の参加」自体が代表制民主主義を破壊しかねないと言っているわけではないことだけは,ご理解くださいね。「住民の意見」を市長側や議会側に伝達することは大いに推奨すべきですし,そのためのより簡易な手続きを整備すべきでしょう。ただその過程で,どれか一つの「住民の意見」を重点的に,特別に,ことさら特権的に取り扱うことは問題だ,としているだけなのです。)。
ところで話が変わりますが,代表者と被代表者との緊張関係があれば,代表者において,よほどのこと(いわゆる利害の衝突)がない限り,適切な職務遂行が期待出来るわけですから,首長からの中立性を担保しつつ,教育委員会においても実質的に責任をとる構図を組むことは可能と考えます。つまりは教育長を名実ともに教育現場における最高責任者とし,市民による直接選挙で選ぶわけです。たとえ教育長になった者が教育委員会に飲み込まれ,結果,教育委員会が正常に機能しなくなっても,すべては,そのような者を教育長として送り込んだ市民の責任に帰することが出来ます。
とりわけ他の部局間で利害の衝突が起きやすく,かつ高度の独立性を有すべき専門的部局においては,その長を直接選挙で選出するというのが一つの方法として考えられます(加えて,選挙の時期を意図的にずらせば,その場の勢いによる市民の暴走による弊害も緩和出来るでしょう。)。当然,選挙の機会も増えますし,それぞれは専門的領域であるがゆえに,個々で見ると実は市民とかなり密接的です。加えて専門的知見がないと公職者として務まらない上,それぞれの公職を選ぶにあたっては,公職者の職務権限が限定されていることもあり(この点は,個々の公職者の就職後の職務活動を監視しやすくなるということを意味します。),争点は単純化ないし限定化されうるでしょう。そうすると市民の議論は活発になることが期待出来ると考えます。
最終的に,首長の役割は,総合的な調整に限定すればいいということになります。首長が全能である必要はなく,部局間で利害の衝突が起こりえる以上,原理的に不可能です。明確な縦割りと,誰のための縦割りかということが市当局及び市民においてはっきりと意識される必要があるでしょう。
(首長,議員以外の公職者の選挙には,その公職により影響を受けうる市民が主体となって投票活動を行うわけですから,実質的には一部の市政に関する一部代表かまたは少数代表の意味があると考えられます。それぞれの領域における代表者として選出された公職者が,最終的には首長による調整と議会の承認のもとで職務を遂行していくわけですから,多数意見の暴走を抑止することも期待出来るのではないでしょうか。)
そのように考えれば,現在の首長選挙等でたびたび問題となっているSingle Issue Politicsの弊害もある程度緩和出来ると思うのです。
大刀洗町のフェイスブックに「住民協議会」の試行の第1回会議の報告がアップされています。https://www.facebook.com/tachiarai(2月15日)
返信削除「住民協議会」の進め方などについては情報を得ていません。推察するに特定の行政課題について現状説明し意見を求める。そのプロセスは公開される。そういう過程を経ることにより行政施策への理解が深まることが期待されます。
「市役所内部で検討」「特定の委員で検討」・・・そして結果だけが知らされる。そのようなことができない仕組みのようです。今後の経過にも注目したいと思います。
>>推察するに特定の行政課題について現状説明し意見を求める。そのプロセスは公開される。
返信削除>>「市役所内部で検討」「特定の委員で検討」・・・そして結果だけが知らされる。そのようなことができない仕組みのようです。
プロセスが公開されても,必ずしも適切な,真なる住民の意見を反映した「意見」が住民協議会の結論として出るわけではないですよね。プロセスが公開されるというのは,あくまでもその意見に耳を傾ける者において,その意見の適切性を判断する上で意味があるだけです。別にプロセスが公開されるといっただけでは,協議会委員に,真なる住民の意見とは何かを踏まえて行動してもらうための動機付けを行うことは困難です。
またさらにややこしい問題が生じかねません。たしかにプロセスも含めて公開されるならば,どのような経緯により協議会の意見が出たのかという事実も踏まえたうえで,一見して明らかに不適当と思われる意見や,あるいは著しく不適当と思われる意見であれば,その意見を斟酌する側においてその排除を行うことも可能となるでしょう。この限りにおいて,首長等が当該意見を利用して住民の意見である旨の抗弁を行うことは,現実的ではないと思われます。他方すべての政治課題,行政課題はかならずしも白黒つけられる性質のものばかりではありません。なかんづく立場によって結論が分かれかねない性質の問題についての住民協議会の意見は,それが一見明らかに不適当と思われる場合か,著しく不適当と思われる場合でない限り,事実上,パブリックな「住民の意見」と見なされる可能性が十分考えられるのです。この場合,住民協議会の意見に不適切とする側において,その意見の不適切性を主張立証しなければならなくなります。本来であれば,その意見を主張する側において,適切性を主張立証しなければならないにもかかわらず,です。
つまりは立証責任の転換のような現象が起きかねません。パブリックな意見は,ただそれだけで強力な説得力を持ちます。そのことが,住民協議会の意見が住民の意見を表すものとして事実上特権的地位を受けることの最大の問題なのです。そうなってしまったら,住民が自己検閲をしかねません。
本来,住民の意見は三者三様,ともすると,一人一人で見解が異なる可能性だってあり得ます。しかし住民一人一人が,かけがえのない住民であるため,彼ら住民の意見は,いずれも平等に扱うべきです。その上で,代表者が責任のすべてを負担して,住民のために政策を決定し,実行していくのです。
住民協議会をどのような制度と位置づけるにせよ,住民の政策に関する意見を公的に求めうるという点自体に,明らかに問題があると言わざるを得ません。そしてこの問題は,透明性云々では解決しがたいと考えます。
どのような施策を行うかは「首長」に任されています。そして「議会」がチェックする仕組み、いわゆる二元代表制です。
削除「住民協議会」でどのような意見が出ようとも基本的にはそれに従う必要はありません。しかし、住民協議会の議論の過程を経ることにより施策への理解は深まると思います。
行政の行うことでも、絶対に間違いない施策などありませんから、改善の余地もあるでしょうし、反対の意見もあるでしょう。また、失敗することもあります。
その結果責任は「選挙」を通じて取っていくことになりますが、「住民協議会」で行われる過程の公開は、その際の有力な判断材料となると思います。
ところで,住民の一部をなかば強制的(という表現が適切かどうかは別として)に市役所に連れてきて,議論させることにより,住民の意識が高まり(これがなにを意味するのかという問題もあろうが,ここでは問題にしない),ひいては住民理解が高まるといえるのですか?
削除あまりにも現実的ではないと思うのですが。
高まると思います。現実的かどうかは今後「試行」の中で明らかになってくると考えます。
削除住民の一部をどのように選ぶかについては「氏名」「代表」「公募」などがありますが、今回のような無作為抽出という方法により選ばれた方々による「協議会」はそのプロセスを含めよい影響をもたらしよい結果を生むと思います。
>>「住民協議会」でどのような意見が出ようとも基本的にはそれに従う必要はありません。
削除先生のおっしゃるとおり,現行の大刀洗町の住民協議会制度においては,住民協議会の意見は首長を拘束しません。その点は同意です。しかし,私が今まで示してきた懸念は,住民協議会の意見が公的な意見として,他の住民の意見とは違った意味づけがされかねない点に終始します。施策への理解が深まるか否かを抜きにして,そのこと自体が問題だと言っているのです。
>>行政の行うことでも、絶対に間違いない施策などありませんから、改善の余地もあるでしょうし、反対の意見もあるでしょう。また、失敗することもあります。
>>その結果責任は「選挙」を通じて取っていくことになりますが、「住民協議会」で行われる過程の公開は、その際の有力な判断材料となると思います
確かに先生のおっしゃるとおり,間違いのない施策など存在しません。すべての施策には何らかの改善の余地がありますし,反対意見もあります。失敗することもあるでしょう。
しかし,私はその点をあまり問題にしていません。住民協議会の意見が公的な住民の意見として受け取られかねない性質を有していることから,住民の意見に従って首長が失敗しても,「仕方がないよね」という雰囲気が醸成されかねない点を問題としているのです。住民協議会がなければ,公的な住民の意見というものは存在しません。首長は,ありとあらゆる住民の意見に耳を傾け,最終的にはすべての責任を負い,施策を決定します。そこには原則として,「仕方がないよね」という雰囲気が生じる余地がないのです。
つまり住民協議会制度は,公的な住民の意見を首長に供給するために,首長が結果責任をとらない事態が生じる可能性を与えることになります。
>>(住民の理解は高まるのか,現実的かとの問いに対し)高まると思います。現実的かどうかは今後「試行」の中で明らかになってくると考えます。
住民協議会制度が住民の理解の向上に寄与するというのは定性的なものにすぎません。とすると,住民協議会による住民の理解の向上が現実的か否かという問題も生じるでしょう。現時点で,先生もお認めの通り,住民協議会が住民の理解を向上させるかは,不明です。とすると,先に解決しなければならない現実的諸課題について議論しても遅くはないでしょう。
ところで,住民協議会制度により住民の理解を高めるという先生のご提言ですが,これは一方で住民をひとつのある性質をもった客体と見なし,その教化啓蒙を目指すというものと置き換えることができるのではないかと。とすると一つ問題が生じます。問題の中心は,そこにあるのか,と。
このことは住民の水準が向上すれば無関心は解決されるのかという問いに変換できるかと思います。この場合,水準が向上しても必ずしも無関心は解決されないでしょう。たとえば場企業の株主とかとくにそうでしょう。彼らは,別に自分自身ががんばる必要はない。誰かのがんばりは自分の利益になります。よって株主は,誰か別の人のがんばりにフリーライドしようとするでしょう。つまりは,どのような利益が株主として会社から引き出せるかが問題であり,会社が実際に発展するかどうかに必ずしも関心にありません。そして上場企業である以上,その会社に嫌気がさせばいつでも退出できる。この場合,株主においては会社の動きを具に見守り,いつバイバイするか,だけが問題となります。いわゆる合理的無関心の問題です。
臼杵市においても一緒ですよ。いつでも,引っ越せるから,別に自分ががんばる必要はないという合理的無関心。市が気に入らなくなれば,どこにでも行ける。現に人口流出が相当数発生していませんか?
合理的無関心をいかにして解きほぐすかが問題なような気がします。
仮に合理的無関心が問題の中心にあるのだとしたら,住民協議会制度では絶対に解決できません。無関心なのは,無理解によるのではないからです。彼らは,市の施策なんかどうでもいい。透明性があろうがなかろうが,市政が腐敗しようがどうなろうが,まったく関心にないのです。
この合理的無関心の結果,市政を適切に維持するためのある種の機関として機能するべき市民は,その機能を減退させてきていると認めざるを得ません。そのような状況下において,さらなる不確実要素を増やすわけにはいかないのです。
どのように市民の意見を汲み、市政を執行するかは市長次第。無論「議会」のチェックが前提ですが。
削除「住民協議会」をどのように受け止めるかについても市長次第。その結果の責任は「「選挙」という形でとらねばなりません。
>彼らは,市の施策なんかどうでもいい。透明性があろうがなかろうが,市政が腐敗しようがどうなろうが,まったく関心にないのです。
そうは思いません。何とか関心を持ってもらいたい。その一つの取り組みが「住民協議会」であると思います。従来の「議会」や「委員会」に興味が湧かなかった方々にも興味を抱いてもらいたい。そういう期待はあります。
>>何とか関心を持ってもらいたい。その一つの取り組みが「住民協議会」であると思います。従来の「議会」や「委員会」に興味が湧かなかった方々にも興味を抱いてもらいたい。そういう期待はあります。
返信削除質問の方向性を変えましょう。
現実の市民の一人一人がどのように考えているのかは,我々の認識とは関係がありません。とすると,現実にどのように考えているのか不断の分析が必要となるでしょう。
ところで,近年の市民の市政に対する無関心が無理解からではなく,合理的無関心から生じるものだとしたら,市民が市政に対して無関心であることには,合理的理由があるということになります。
この点,住民協議会制度によって市民の市政に対する関心を取り戻すということは,単に同制度が市民の市政に対する理解を醸成することによって関心を取り戻すのみならず,市民において存在する無関心であることについての合理的理由をも解きほぐすことを意味します。
なぜ住民協議会制度が市民において無関心であることについての合理的理由を解きほぐすこともできると先生はお考えになられるのでしょうか。この合理的理由を解きほぐさなければ,我々の期待は相手方に通じないのです。
>近年の市民の市政に対する無関心が無理解からではなく,合理的無関心から生じるものだとしたら,市民が市政に対して無関心であることには,合理的理由があるということになります。
削除「無関心」である「合理的理由」というものは私には判りません。
私は、臼杵市のために「良い」と思う方策を実行する、そういう方向に向かうよう努力する、そういう使命を帯びていると考えています。よい方策を考えるには多くのご意見を頂戴する必要があります。
市民が「無関心」であるとNAGIさんおっしゃいますが、仮にそうであればどのような方策をとるべきとお考えでしょうか?
「合理的無関心」という言葉でなで切りにするのはちょっと乱暴だと思うんですよ。
削除そもそも「合理的無関心」という言葉で言うところの合理性とは、関心を持って何か行動するコストよりも無関心で何もしないでいるコストの方が少ない、よって無関心を選択する、という選択の合理性のみを指しており、その背景にある文脈に言及するものではありません。
何もしないことそれ自体に、解きほぐせないような合理的理由があるという意味では無いですよね。
違う言い方をするなら、合理的無関心という言葉で言う合理性の及ぶ範囲には、積極的な市政への関わりの可能性が含まれないのですよ。
他でも無い自分が、他でも無いこの臼杵市に住んでいるのだから、何かしら積極的に市政に関わらなければと言う義務感は、私たち住民には当然ありますよ。近所のどぶ掃除とか公民館の掃除とか、僕たち積極的に関わっていますよね。
それ以上の事柄になると、差引マイナス、俺は知らん、って選択をしちゃうんですよ。
問題は、市政に関わる事柄について、何がイージーで何がたヨダキイのかという住民の判断指標が何に由来するのかということ。地域が抱える本質的民度の低さかもしれないし、無知蒙昧さなのかも知れないし、役所の職員への個人的感情なのかも知れないし、いろいろあるでしょうね。
もし住民評議会とかいうのが、近所のどぶ掃除以上の市政への関わりについて、ハードルを下げるのであれば、大変有意義なんじゃ無いかと思いますよ。ヨダキそうに見える物事というのは、要素とその関連を一個づつ整理してゆけば、以外とイージーに見えてくるものです。
(追伸)
削除ただ、臼杵んしの合理的価値判断基準についてなんだけど、
「自分が他人より得をするのが善」=「他人が自分より損をするのが善」
という風土・気質があるよね。
NAGIさんが「合理的無関心」って言葉を出すのもよくわかるんだよね。
ありがとうございます。
削除「関心を持って何か行動するコストよりも無関心で何もしないでいるコストの方が少ない、よって無関心を選択する」
「自分が他人より得をするのが善」=「他人が自分より損をするのが善」
何となく理解できます。それでもなお、市民参加のハードルを下げ、行政任せでは無く「自分事」と捉える、そういう政治(行政)を目指したいと思うところです。
まず第一点。そもそも,合理的無関心の観点から,なで切りにするようには論じていないということ。「もし合理的無関心が中心にあったら」と仮定した上で,そのときはどうするのだ,ということを言っているに過ぎないということ。そのような可能性も検討すべきではないか,ということです。当然合理的無関心の意義,背後にある文脈等等についての検討が必要になります。
返信削除なぜ合理的に無関心になってしまうのかが判明すれば,参加するためのコストを下げるといった対応もできるようになるでしょう。
第二点,これまでのコメントの一切は,住民協議会制度の是非についての問題をその直接の対象としてなされたものであり,住民の無関心とか無理解といった現象を直接対象とするものではないこと。従って,住民の無関心とか無理解についてのコメントを求めることは,住民協議会それ自体についての議論から離れてしまうのではないかと考えられること。
私はこれまで,「住民協議会」という名称をもった,市の施策についての意見すらも述べることが出来る権限が与えられた,パブリックな機関が提出した意見が,あたかも「住民一般の意見」として扱われかねない「可能性」を指摘し,住民協議会の意見が,住民一般の意見として扱われた場合には,その重さゆえに,首長等の政治責任を事実上無効化するかもしれない「危険性」を指摘してきました。その背後には,地方ほど実質的な住民参加が脆弱ではないか,市民,首長,議会間の相互牽制,相互抑制の機能が脆弱ではないかという問題意識があるためです。
いったん政治が暴走を始めたら,なかなか止めることは出来ないですよ。ブレーキ装置をそんなかんたんに外すべきじゃないです。首長は,どういう意見を住民の意見としてくみ取るのかも含めて,完全に自分の責任で市政を運営すべきなのです。それこそが首長に対するブレーキ装置として機能します。そこに「住民の意見」と銘打った「住民協議会決議」が出てきたらどうでしょう。
第三点,一応,住民参加のあり方について。住民参加のあり方はべつに住民協議会制度だけではないはずです。住民協議会制度は,住民の一部を役所に召し上げて,「そち,何か意見はあるか?」と聞くようなものです。なんと尊大なことでしょう。普通は,意見を聞きたい人のところに行って,「お願いですから,話を聞いてください」と言うべきでしょうに。
そこが住民協議会制度を市民感覚から見たときに出てくる,一番の難点だと思います。
でもフォーマルでパブリックな制度にする必要は必ずしもありません。インフォーマルに,区の会合なんかに職員方や議員諸先生が顔を出したりして話をするだけでもいい。議会が地方まで出張ってゆき,日曜日とかに地方公聴会,出張公聴会をするのも良いでしょう。委員会を外でやるというのもありでしょう(どの地方にもだいたい公民館があるので,不可能ではないはずです。)。
市や有志の議員諸先生が主催するないし参加する形の勉強会をするでもいい(地域の問題発見検討会とか。)。
小学校や中学校で地方自治における住民参加の重要性について,その第一線でがんばられておられる議員諸先生が説くということも効果があるのではないでしょうか。
思うに,開かれた市政というのは,単に市役所のドアが開いていることだけでなく,市役所の方から外に向けて手を伸ばしたり,足を運んだりするということでもあるでしょう。住民参加を高めようと思えば,(役所の側から)積極的にそうすればいいんです。政治任命を増やしたり人事交流を活発にしたりして役所の入り口に回転ドアを置くというのも一つのアイディアでしょう。
このような意味で,市当局にはさらなる積極性が求められることと考えます。
まだまだ実践されていないアイディアは無数にあるはずです。見方を変えるべきです。住民参加は,どこかで,住民が統治機構に参加していく図式で捉えられることがあったかと思います。でも,統治機構,すなわち自治体の方から住民の方に出て行くことがあってもいいのではないでしょうか。
こうした,普段からのざっくばらんな交流こそ,我々が最終的に目指すべき住民参加のあり方ではないかと考えます。合理的無関心の文脈にもよりますが,通常は,自分も他の役に立ちたいという希望自体はだれもが持っているはずですから,普段からの接点を増やすことは,彼らが行動する上でのコストを確実に低減させるでしょう。ひいては自発的な住民参加も期待出来るようになります。
政治任命ではないごく少数の委員から構成される住民協議会制度の議論は,それらをし尽くしてからでもいいと思います。
> 住民協議会制度は,住民の一部を役所に召し上げて,「そち,何か意見はあるか?」と聞くようなものです。なんと尊大なことでしょう。普通は,意見を聞きたい人のところに行って,「お願いですから,話を聞いてください」と言うべきでしょうに。
削除なるほど、まったく同感です。
ところで、有志のあつまりというのが現在いくつかあるのでしょうが、そのような場が有用な政策議論につながっている例はあるんでしょうか?
有用な政策議論とするためには、まずは「施策」を理解してもらうことが必要です。臼杵市においては有志団体との「車座トーク」が代表例でしょうが「聞き置く」という姿勢であり、本気で討議するような場面に遭遇したことはありません。
削除「住民協議会」は公開で行われますので、役所の側も本気で理解してもらう必要があり、有用な政策議論に繋がるのではないかと期待するところです。
>役所の側も本気で理解してもらう必要があり、有用な政策議論に繋がるのではないかと期待する
削除やっと若林先生が住民協議会を導入したいと考える理由が見えてきた気がします。ようは役所に「本気」で取り組んでほしいということでしょうか。
しかし,協議会自体を透明化しても事務方が協議会自体を事実上乗っ取ってしまえばそれまでと同じか,それ以上に状況が悪化しかねないと考えます。教育委員会と似た状況になりかねません。委員とそれを補佐する事務局どちらもがしっかりしなければ形骸化するでしょうし,形骸化したときの危険性は極めて重大だと考えます。協議会に首長がかかわるわけではないので,協議会をひとつのきっかけとして首長が事務方に飲み込まれてしまう危険性をはらむと言うべきでしょう。
納税者のニーズへの対応は,かならずしも役所だけが遂行できるわけではありません。役所は組織が大きいので,小回りが効きづらいと認識すべきではないかt考えます。役所だけで,納税者の多様なニーズをまかなえるとは,考えづらいわけです。
とするとどうすべきか。役所の,組織規模が大きく,小回りが効かないという特徴を活用し,住民サービスの総合百貨店的な位置づけにすればいいでしょう。しかし,少数ではあっても多様な納税者のニーズがあることも事実。そこで小回りの効くNPOや住民活動団体がその役割を担う。そこで,先に述べたように,相互な人的交流(役所から民間へという一方的な交流ではありませんよ。民間から役所に人間を入れるということが重要です。)を行うのです。
つまりは,回転ドア方式の役所運営を行うのです。
回転ドア方式の交流人事で役所に入った人たちは,役所で一生を過ごすわけではありません。いずれ元居た場所に戻る等するわけです。とすると,役所の慣行や無言の圧力にとらわれずに政策議論に参加できると期待出来ます。
もちろん回転ドア方式の役所運営は,やり方を間違えれば金権政治の温床になりかねないとか,利害の衝突が起こる可能性を内包するものです。その点解決すべき問題がないとはいえません。
他方,現在の閉鎖的な人事による利害の衝突は,自己保身と住民の利益とを天秤にかける,つまりは何もしない方向に向かう利害の衝突だから,公職に就くことでどんな利益が自分(ないし元いた団体)に得られるだろうかという,何かをする方向に向かう利害の衝突よりはましだ,ということが出来るかも知れません。
ですが,金権政治だって透明化を図れば抑制できますし,利害の衝突が起きうることは任用時の調査や,執務の監視を通じてその弊害を緩和することが可能でしょう。またそれまで所属していた団体も住民活動団体であることが多いと考えられますので,それまでの所属団体の利益も考慮しつつ執務を行うということは,住民のニーズを執務に反映させることにつながると考えます。細やかな住民ニーズの反映は,重要でしょう。
他方,自己保身と住民の利益を天秤にかけたときに生じる利害の衝突は,その性質上,解決の方法がありません(職員のがんばりにかかわらず,臼杵市役所というものは,直ちに潰れません。臼杵市が発展しても,その恩恵に直接与れるわけでもなければ,その自覚がなかなか感じられないこともあるでしょう。逆に職員は,ヘマをしてしまうと,さっさと隅に追いやられるということがあり得ます。なにもしなくても,自分の状況は変わらず,またヘマをするとその不利益だけはしっかりと受ける環境のなかで,どうしたら,住民のためにがんばってもらうという動機付けが出来るでしょうか。自分の生死と所属する組織の生死が一致しないために生じる事なかれ主義は,少々のことでは解決できないと考えられます。)。
より決定的なのは,状況の悪化です。もう何もしないままで放置することは,出来ないと言うべきでしょう。とすると少々のリスクをとってでも,そのリスクを管理しつつ市政を運営すべき方策を見いだすべきだと考えます。解決しがたいと分かっている問題に取り組むよりは,解決すべき問題が多々あるけれども,新たな可能性にかけてみるべきだと思います。
いずれにしても,回転ドア方式の役所運営は,役所に新風を吹き込み,議論を活性化させるという意味では,住民協議会制度よりもよほど効果的ではないかと考えます。事務方に積極的な政策議論をするよう働きかけるのではなく,事務方内部からの革新を図るために,抜本的な解決を図る方法の一つになるでしょう。その点,住民協議会では,事務方内部からの革新を図ることはできません。住民協議会が,役所内部にあって外部的,あくまでその実質,役所に意見を供給する役割しか担わないからです(住民協議会さえ乗り切ればOKということになりかねないでしょう。)。
「住民協議会」にはNAGIさんが言われるような「責任」も「権限」もないと思います。無作為抽出ですから普段は「行政」に関心の無い方々が集まります。その方々に「施策」の中身を説明して理解を求め、感想なり意見なりをいただいてよりよい施策に磨き上げるというプロセスです。大事なことは「公開」されるということ。その過程に触れる市民も同じように考え、感想なり意見なりを抱くということです。その繰り返しが施策の透明性を担保し、市役所の説明責任を果たすと共に民度が上がる結果に繋がると思っています。
削除回転ドア方式の役所運営については大変興味深い提案です。かつて私も県庁時代に「必要かつ効果的」と考えたものです。役所改革の「劇薬」と言えます。
しかし、一方で民間から役所に入った人が本当に期待される役割を果たしうるかという懸念もあります。民間から校長先生を採用するというような事例はありますがなかなか困難な様子です。ましてや「役所の本丸」想像に難くありません。NAGIさんが役所に入れば「事なかれ主義」を打破できるかも知れませんね。
なによりも、首長が「民間(の感覚を持ちつつ)」から「役所」に入って改革するのが一番手っ取り早い方法ですね。副市長もそのような感覚を持った人を起用すれば、人事交流を行う以上の結果をもたらすことができます。
回転ドア方式の役所運営は,役所改革のための劇薬として機能します。そのつかいかたを間違えれば心停止を引き起こしかねません。副作用も極めて強烈です。しかし,たとえそうであっても,慎重なリスク管理のもと使用すれば効果的な治療薬として機能するでしょう。ある病を直そうと思えば,治療の利益に見合う侵襲リスクの受入れを検討すべきです。
削除民間からの校長先生を採用するという事例を持ち出されましたが,私としては,いきなり終局的決定権限を持つ役職に民間人を据えればいいとまでは言っていません。民間から入られた方々は往々にして行政がどのように執務を行うべきかということにしてご存じではないと思われますので,ともすると住民を巻き込んだ大問題を引き起こしかねません。
民間から校長先生や副校長先生を公募する大阪市の試みは,採用基準の問題,民間から採用された方々へのフォローに欠けが見られたのではないか(研修も含め)等等の理由があって問題を引き起こしましたが,これらの問題点は,回転ドア方式の役所運営を考えるにあたって,いろいろと示唆を与えるものと考えられます。
私が唱える回転ドアは,役所における内なる議論を活性化させることを主眼とします。トップダウンないしミドルダウンの改革を図るものではありません。その点,民間から入られた方々に決定権限を与える必要はかならずしもありません。
事なかれ主義化した役人さんの隣で,ともすると自分の利益のために動きがちな口うるさい人が,毎日毎日,もっともらしいことを言えば,必然的に両者の間に緊張が生じます。自分のためにも意見をしかねない人の共犯になりたくないと考えるであろう役人さんは,自分自身の利益のためにも健全な批判意識をもって議論をせざるを得ません。
なぜならば,民間から入られた方々が自分ないし自分がもといた組織のために,不当な意見をし,かつそのことが市役所内部で取り上げられ,政策として実行された場合,当時議論に関与し反対しなかった者は全員,共犯の片棒を担いだと名指しされかねないからです。反対意見を明確にしない限り,当該意見に賛成したものと推定するという部局の対外連帯責任的雰囲気が作られるとなお効果的でしょう(他方「気づけなかった」「見抜けなかった」というような言い訳も可能ですが,そのような言い訳をする場合,自ら積極的に第三者に対して,自らの職員としての能力の限界を認めなければならなくなります。自身のメンツのためにも,役人さんにおいて,なるべくそのような言い訳をしなくてすむよう行動すると期待出来るでしょう。)。
他方,民間から入られた方々の意見が妥当であった場合,この意見をつぶすことは,自らの直接的言動行動により,意見をつぶすことにほかなりません。自ら責任をもってその意見をつぶすことになります。
とすると回転ドア方式の役所運営を行うことによって,役人さんにおいて,市民の利益になると考えられる意見には邪魔をさせず,反面,市民の不利益になりそうな意見については真面目に議論するよう誘導できるのではないでしょうか。
もっとも両者の力関係に事実上差異があれば,力関係が議論の結果に影響を与えかねません。その点,民間から招く人の員数,配置等については慎重な配慮を要するでしょう。どちらが強すぎても,この試みは失敗するからです。
首長が「民間(の感覚を持ちつつ)から役所」に入って改革をすれば一番手っ取り早いですし,そのことが理想なのも事実です。ですが,一人で出来ることには限度があるのではないでしょうか。
昔私の恩師が言った,「リーダーが全てをすることは出来ないし,するべきではない。リーダーは,自身がすべきことを誰かにさせる役割を担う」という言葉を思い返します。首長が一人一人の職員との議論を通じて改革をしていくなどということが出来ないでしょうし,なまじ権限に差異がありすぎるので,妥当な議論が出来るか極めて疑問です。
しかし,首長がボトムアップの改革を絶えず促す仕組みを作ってしまうということは,現実的な対応策になると考えます。つまり首長は絶えざる改革のための制度を整え,実際の改革は誰かにやらせるのです。
この回転ドア方式によれば,住民の意見に基づいた改革の端緒を作ること(住民の意見の役所内部での反映),及びその適切性を担保すること(専門家としての役人さんが自身の利益のためにも住民の意見の適切性を住民のために論じること),二つが同時に達成可能になると考えます。
民間から課長を招聘ですか。。市役所内部に極度の緊張を強いるようなことをやってのける首長がいるかどうかが問題ですね。
削除そのような荒業をとれる市長なら、市民感覚を持ちつつ成果を上げるのは容易な気がします。
そのような例としては希ですが「阿久根市」の竹原市長が思い浮かびます。「住民至上主義」を掲げ、市民に良かれと思う施策を過激に行いました。
あまりに過激なやり方に業を煮やした市民によって終焉を迎えましたが、もう少し穏便に粘り強くあれば、長期にわたって市長を務められたのではと残念に思うところです。また最近では橋下市長の名前が挙げられると思います。
>>民間から課長を招聘ですか。。市役所内部に極度の緊張を強いるようなことをやってのける首長がいるかどうかが問題ですね。
削除極度の緊張では意味がありませんし,そもそも私は,「課長」という言葉すら使っていません。加えて,前回のコメントでは,「終局的な決定権限」を持つ役職へ民間から人を入れれば新たな風が巻き起こり,必ず議論が活性化するとはしていませんし,役所の職員さんと民間から入ってくる人たちとの関係性を一切無視して,とにかくよそ様を入れれば良いのだというふうにはしていません。
むしろその逆で,混乱しない行政という住民の利益も考えたうえで,「終局的な決定権限」を持つワンマン化しかねない役職への天上りさん方の登用はなるべくさけ,職員相互間に適度な緊張関係を生み出し,相互の活発な議論が起こるよう,民間からの天上りさん方を組織上どのように位置づけるべきかという点には「慎重な配慮」が必要で,この配慮を欠く場合は失敗すると述べているはずです。天上りさん方と役人さん方のパワーバランスがイーブンになるよう維持できなければ,この企みは必ず失敗します。
もし天上り組にパワーバランスが傾いた場合,天上りさん方において,健全な議論なしに力で押し切ることを可能とし,役人さん方に期待すべき専門家としての助言機能や規制的機能といったセーフティー機能が減殺されることでしょう。その場合行政の大混乱が生じかねません。
他方役人さん方にパワーバランスが傾けば,もともと問題としていた事なかれ主義が解決できません。
パワーバランスがイーブンであれば,一方が他方を力ではなく議論で説得し,賛同してもらわないといけない状況を作り出すことができます。最終的には役人さん方が決定権限を握るにしても,です。
このダブルチェック機能は双方のパワーバランスがイーブンのときしか機能しません。機能する条件が厳しく,また機能しない場合の弊害が大きいと考えられたために「劇薬」という表現を使用したのです。
最後に,ここでの回転ドアの話は,どのように起案,討論,決定をやっていくのかという「プロセス」についてのものであり,その限りで政治的に中立的です。ゆえに今回の議論においては,その性質上個別具体的に「住民至上主義」的過激な施策を行うことを一切前提としていないので,先生ご指摘の点は,今回の議論には当てはまらないというべきです。
私としては一番最適なポジションとして「課長」かなと思ったところです。パワーバランスが重要とのことですが、民間から招聘される人にも関係するでしょうし、市役所の部門にも関係しそうですね。NAGIさんはどのようなポジションがパワーバランスの点からよいと思われますか?
削除一般には個々の役所の実情,市民の実情,すなわち市民活動団体の実態等々を踏まえて,客観的にパワーバランスがイーブンとなるように制度設計をしなければならないということになるでしょう。ゆえに個別具体的にこの質問に答えようと思えば,事前に慎重な調査が欠かせません(制度導入後も絶えざる調査が必要になるでしょう。)。
削除実際,どの程度役人さんにおいて事なかれ主義が蔓延しているのかが具体的に評価できているわけではありません。事なかれ主義自体が定性的であり,定量的に評価できるかという点で微妙な要素があるからです。
また個々のパワーも定量的に評価できるかという疑問があります。
本稿での回転ドアはあくまでも事なかれ主義を打破ないし緩和し,活発な議論を巻き起こすことをその目的とします。ゆえに最終的には最適値を求めるために試行錯誤となるでしょう。
ところで私見としては,これまでの議論を通じて一定程度の方向性は見いだせるかと思います。
1) (勢力対等の原則)天上り組さん方のポジションは,天上り組さん方が役人さん方から客観的にも実質的にも無視できるような状況を引き起こすものであってはならず,また天上り組さん方のポジションは,天上り組さん方が客観的にも実質的にも役人さん方を凌駕するような状況を引き起こすものであってはならない。
2) (参加保障の原則)天上り組さん方のポジションは,実質的にも客観的にも,日常的かつ継続的な,天上り組さん方と役人さん方との精緻な議論の展開を可能とすることを保障するものでなければならず,また天登り組さん方のポジションは,単に意見を述べる役割を担うにとどまらず,内部的意思決定に十分関与できるものでなければならない。
3) (終局的権限不保持の原則)天上り組さん方のポジションは,可否同数による議論の停滞から最低限の行政の執行を保護するために終局的決定権限を掌握しないことが望ましい。
3)については,議論の「停滞」というよりは「膠着」と言うべきでしょうか。いずれにしても行政の停滞を引き起こしかねない要因となります。
削除そこで,批判を受ける素地を十分残した上での議論打ち切りの手続き,すなわち,実務担当の側において誰かに,終局的決定権限を持たせる必要があると考えます。誰もが責任を負わず,部局における対内対外的意思決定を行うにあたって,常に全会一致ないし過半の一致を求めるならば,当該部局において無責任が生じかねないと考えます。
しかし,これはあくまで行政の機能不全を防ぎ,住民の利益を保護するためのものです。とすると行政の仕組みに詳しい役人さん方が終局的決定権限を掌握するのが望ましいのではないかと考えられます。
以下のとおり,微妙に訂正。
返信削除訂正後の事項:
どちらも「役人さん」には変わりありませんが,従来から役所に勤めておられるいわゆる役人さんのことを便宜上「役人さん方」といい,回転ドア方式により役所に入られた方々を「天上り組さん方」と便宜上言います。
1) (勢力対等の原則)天上り組さん方のポジションは,内部的意思形成の際,役人さん方が,天上り組さん方及びその意見を無視できるようなものであってはならず,かつ天上り組さん方が,一方的ないし支配的に振る舞えることを許すものであってはならない。
2) (参加保障の原則)天上り組さん方のポジションは,役人さん方及び天上り組さん方間における日常的かつ継続的な政策論議の展開を保障するものでなければならず,かつその地位は,内部的意思決定に十分関与できるものでなければならない。
3) (終局的権限不保持の原則)天上り組さん方のポジションは,終局的決定権限を掌握せず,役人さん方において,責任を負ってこれを担うのが望ましい。